「か」
かのじょの熱をただ
「……はい?」
その日、とある宗教の僧兵であるクリケシュは、村長の言葉を聞き返していた。
「いやですから、幽霊なんぞ、うちの村にはいませんぞ」
「……」
彼は微笑を崩さぬまま、客として出されたお茶に口をつけ、一口飲んでから浮かべた笑みを深めた。
「ですが、しばらく前にこの村の森で『幽霊』を見たと、通商の方から協会に訴えがありまして」
内心、『嘘言ってんじゃねえよ面倒くせぇな。こっちは証人がいんだよ』と思っていたのだが、そのどす黒いものは隠して、彼は続けた。
「さすがに一人であれば見間違いとも考えられますが、複数の方から話を頂いてるものですから」
止めを刺すように、クリケシュは笑顔で圧力をかけた。
「そう言われてもねぇ……いないもんはいないんだから。良かったら村人にでも聞いてみて下せえよ。見たもんなんぞいないはずですよ」
「――なるほど」
先ほどから似たような問答を続けてきて、僧兵ではありながら気の短いクリケシュは、残ったお茶を一気飲みすると、音を立てて席を立った。
「分かりました。貴方はご存じないとの事……他の方に話を聞いてみます」
「はいはい、どうぞ。なーんも出てこんと思いますがね」
村長も全く身に覚えがないとでも言うように、朗らかにクリケシュを見送った。
笑顔の裏で苛立ちながら、彼は「失礼」と一声かけて、村長宅を後にした。
(……どうなってるんだ?)
一応イメージと言うものを意識して微笑を浮かべているクリケシュだが、心中は穏やかではなかった。
村長の言い分を嘘と決めつけ、手当たりしだい村人に話を聞いたのだが、誰として隣に位置する森の中に、『幽霊』など見たことがないと言う。
(ここまで見事に何も出てこないとは……やっぱり、見間違いか何かなのかな?)
さすがに協会の指示を疑い始めるクリケシュだった。
この世界から完全なる力を持った『幻神』という存在が去っても、一部にはまだ『宗教』というものが残った。
クリケシュの属する宗教――『幻教』とは一言で言えば、『信心が足りないから神様は去っちゃったわけで、皆が心から幻神を信じればまた戻ってきてくれるかもヨ?』というものだ。
そして真の理想郷を与えてくれると、その宗教は謳う。
勿論、全ての民が信じているというわけではないが、獰猛な生物などの討伐も請け負う『幻教』は、世界のごく限られた区域に言及すれば、力と地位を持っていることは確かだった。
それらの区域では、ある程度の規模の町には小さな支部とも言える協会が建ち、厄介事や相談が持ち込まれる。それらを解決することで、幻教は厳然たる地位と、国々からの援助を得ているのだ。
幻教に帰依する僧は、文官に当たる『僧侶』と、武官に当たる『僧兵』とに大きく分類される。
武力に秀でた僧兵は任務にあたり各地に派遣され、物事の解決を図るのだ。
腕の良い僧兵の中には、各地の協会を巡って依頼を受ける、殆ど傭兵のような者もいた。
彼――クリケシュも、そんな流れ僧兵の一人だった。
(ったく、ちゃんと仕事してくれよ僧侶ども。僕は馬鹿騒ぎに関わってられる程暇じゃないんだ……!)
神事に関わる者らしくなく、性格はあまりよろしくなかったが、死に物狂いの努力の結果、実力だけはあった。
「きゃっ! ご、ごめんなさーい!」
考え事(罵言)をしていたクリケシュは、その声に意識を戻した。
視線を落とせば、小さな女の子がクリケシュに頭を下げている。どうやら遊んでいる最中に、彼にぶつかったらしい。
「……僕は大丈夫ですよ。貴女は怪我していませんか?」
すぐに僧兵の模範的態度に改め、クリケシュは彼女に視線を合わせるべく、その場にしゃがみこむ。
貴女と呼ばれて、少女はおませな年頃らしく、もじもじと足を動かした。
「だ、大丈夫よ……。わたし、もう大人だもん」
「そうですか?」
その様子に、クリケシュはある女性を思い出して、表情を和らげた。
「それならば良かった。将来のレディに怪我をさせては大変ですからね」
「や、やだー、お兄ちゃんってば!」
照れながら少女は笑い、ぱちぱちと彼の肩を叩いた。
その様子に、クリケシュは自然と笑みを深める。
「では、転ばないように気をつけてくださいね」
「うん!」
少女を笑って見送ろうとしたクリケシュは、ふと、何気なく少女に尋ねた。
「そういえば、森の『幽霊』を知っていますか?」
「ゆーれい?」
走り去ろうとしてた少女は、立ち止まって頭をかしげる。
そして、思い出したように口を開けると、思い切り頭を左右に振った。
「ううん! わたし、幽霊のおねーちゃんのことなんて知らないわ! ばいばいお兄ちゃん!」
音を立てて、少女はあっという間に家の陰へと消えていった。
見送るクリケシュは、ぼそりと呟く。
「……お姉ちゃん、ね……」
* * *
「何はともあれ、下調べは必要だね」
クリケシュは森は歩いていた。
この世界には殆どの町や村の近くに森がある。と言うより、世界の大部分は自然が残ったままであり、生き物たちはその地形を縫うようにして町を作っているのだ。
それはこの世界における基本的な自衛法であり、脅威はいつだってすぐ隣にある。
様々な町や村を巡った彼にとって、森の散策は慣れたものだった。
商人などが森に立ち入っているあたり、危険の少ない森である事は分かりきっていることだし。
(さすがにあんな小さな子にまで口止めしているとは思わなかったけど、子供は子供だ)
いないはずの幽霊を『お姉ちゃん』と呼んだ少女を思い返し、クリケシュは微笑した。
目的の『幽霊』は、女性らしい。
そしてこの村は何故か、こぞってその存在を隠そうとしている。
(隠す理由は分からないけど、相手が女なら確かめる必要がある)
今度こそ。
逸る気持ちを抑えて、クリケシュは森を探索した。
「ん?」
クリケシュは、反射的に木の陰に身を隠した。
(話し声?)
僅かに耳に聞こえてくる話し声に、クリケシュは息を潜めた。
そっと顔を木から出し、声の聞こえてくる方向を見やる。
(あれは……村長)
先ほど別れたはずの村長が、今目の前にいる。
「――から、気をつけてくれ」
誰かと話しているらしいが、クリケシュからは身を隠している木のせいで相手が分からない。
「あんたには皆、何度も助けられてるからな。任せてくれ、絶対僧兵に退治なんてさせねえからよ!」
どうやら、丁度彼のことを話している真っ最中のようだ。
アルコールの類で脂の乗った胸をどんどんと叩き、大口を叩く村長の姿が嫌でも目に入った。
対して、村長が話しかける者は、その声すら聞こえない。
「とにかく、あの僧兵は何とか言いくるめて追い返すからよ、それまでどっかに隠れててくれ」
追い返す相手に聞かれているとも知らず、村長は話し相手に何度も「安心しろ」と言い続けた。
(村人が『幽霊』を庇う理由は、恩があるからか。……幽霊にしては、やけに善良だな)
世界は広く、中にはいるのかもしれないが、少なくとも彼は今まで『人助けする幽霊』の話を聞いたことが無かった。
「じゃあ、俺は一旦村に帰るわ。あの僧兵、若いけどなーんかタチ悪そうだったからよ。じゃあ、またな!」
煮豚にしてやろうかと考えるクリケシュをよそに、村長は小走りでその場を離れていった。
その姿を見ると、クリケシュは苛立ちを追いやった。
(……どうするかな……)
その場を離れることもできず、かと言って相手を確かめることなく姿を消されるのもマズイ。
(間違いなく、コイツが例の『幽霊』だしね)
村長が庇う相手……会話の内容から言っても、話し相手は間違いなく『幽霊』の女性だろう。
どうするかと真剣にクリケシュが考え始めたところ。
「!?」
急に放たれた殺気に、クリケシュは反射的にその場から横に飛んだ。
ドスッと鈍い音に目をやれば、クリケシュが隠れていた木に、深々と細い剣が刺さっている。
「――立ち聞きとは、趣味が悪いな」
よく通る声が、森に響いた。
クリケシュは膝を地面につけたまま顔を上げ、……凍りついた。
そこに居たのは、均整の取れた曲線を描く身体に、白い袖のないシャツ、黒い細身のスラックスに黒い革靴を身に着けた、貴族の館にでも居る給仕のような姿をした女性。
幽霊のはずなのに足がなくも、透けてもいない、幽霊としては奇妙な姿をしている。
だが彼女を『幽霊』と言わしめる理由……控えめながらも丸く高さのある胸の上――本来あるはずの両腕と頭が、彼女にはなかった。
(これ、が……)
その後に続く言葉を、クリケシュは飲み込んだ。
彼女の胴の上――少し離れた空中に、彼女の両腕と、頭が浮いている。
切断面は、不気味にも闇色に塗りこめられていた。
見えない糸で繋がっているように胴の近くにはあるが、決して固定されることは無い腕と頭は、彼女が『幽霊』と呼ばれる十分な理由だった。
「……立ち聞きをしていたつもりはないけど、気に障ったなら謝るよ」
クリケシュは、喉から搾り出すように声を出した。
「しっかり聞き耳立てていたのにか? というより、全くお前の顔に反省の色は見えないぞ」
男性的な話し方をする彼女は、射るようにクリケシュの瞳を覗き込み、口角を上げた。
白い顔にかかる、絹糸の如く真っ直ぐで長い金色の髪が、彼女の口の動きに合わせて宙を泳いだ。
勝気な茶色の瞳が、面白そうにクリケシュを見つめている。
「ちゃんと悪かったと思ってるよ。でも何せ噂の幽霊が、貴女のように美しい人だとは思わなかったから、見惚れてしまってね。上手く脳が働かないんだ」
「……お前、気持ち悪いって言われないか?」
一応口説き文句を言ったはずのクリケシュは、あっさり『気持ち悪い』と評価された。
「で、何だ? お前が村長の言ってた僧兵か?」
「――多分ね」
クリケシュは、彼女の問いに頷いた。
しかし、彼の思考は衝撃を受けたまま回復していなかった。
彼女はゆっくりと動いて、木に刺さった剣を取りにいく。
クリケシュは頭を振り、唾を飲み込んだ。
「――クリケシュ。クリケシュ・ヒーリー」
クリケシュは深い笑みを浮かべて、一語一語はっきりと言った。
しかし、自分の名を告げた彼に、彼女は瞬時に答えを返した。
「お前の名前なんか興味ない」
言われた瞬間、クリケシュは目を丸くした。
彼女の返答があまりにもそっけなさ過ぎたせいだが、彼女はそんな彼の様子に気を留めることなく、話を続けた。
「だってお前、私を退治しに来たんだろう? そんな奴の名前なんて知ってどうするんだ」
「まあ、一応そういう趣旨ではあったけど……」
肯定も否定もせず、クリケシュは曖昧に答えた。
「やっぱりそうか」
彼女は簡単に、木に刺さった剣を抜き去った。
目を細めた彼女を見て、クリケシュはさっと背中に手をやる。
「――なら、私にも抗う権利があるっ!」
「うわっ!?」
高い金属音と共に、クリケシュの顔の前で鋭い剣が動きを止めた。
「む。中々やるな」
離れた場所に居たはずの彼女が消えたと思った瞬間、剣を振りかざしてクリケシュの目の前に現れた。
慌てて背にもっていっていた手を前にかざし、掴んだ細剣で一撃を防いだものの、あと一瞬でも遅ければ今頃意識はなかった。
彼女は再度消えるようにして彼から距離を置いた。
(速過ぎだ……!)
彼女は決して消えたり現れたりしたわけではない。動きが早すぎて、彼の目が追いつかなかっただけだ。
「は、話し合いの余地は!?」
クリケシュは、彼女にそう叫んだ。
「ない」
あっさりとクリケシュの申し出を断り、彼女は第二撃を打ち出す。
「――っ……! どう、してだよ!」
彼女の空中に浮かぶ腕は、胴とくっついているように正しい姿勢を作って剣を握り、体重を感じさせない速さで攻撃を仕掛ける。
何とか彼女の剣を自分の武器で弾きながら、クリケシュは叫んだ。
見境無く人を襲う幽霊は多いが、彼女は村人に好かれるような幽霊だ。いきなり攻撃とはあまりにも短気すぎる。
「確かにっ、僕は、君の退治を依頼された、けど……っ」
幾度と無く打ち込まれる攻撃を捌きながら、クリケシュは続けようとした。
「身を守るために先手を打つ。十分な理由だろう?」
「うあ……っ!」
かわし切れなかった攻撃が彼の肩を掠める。
どくどくと、鼓動に合わせて痛みが肩から広がっていく。
「――」
彼女は無表情に近かった顔を顰め、クリケシュから再度距離を取った。
彼女の剣には、彼の血すらもついていない。
(ヤバイ、なあ……)
クリケシュは素直にそう思った。
彼自身、寝る間も惜しんで剣術を習い、修行を重ねたつもりだった。
だがクリケシュは長年、文官――僧侶だったのだ。剣の道ではまだまだ未熟だった。
対して彼女は、大抵の僧兵なら軽くあしらえる程の技術があり、幽霊だけに体力が衰えるのかすら疑問だった。
力では勝っていたものの、怪我をしては、上手く対抗できるか怪しい。
(死ぬかも)
そんなことを思っていても、クリケシュは弱気になることなく、彼女を睨んだ。
(せっかく――)
彼女はそんなクリケシュを見つめ返し、直後口を開く。
「――腹が立つ」
「……え?」
小さく聞こえる、彼女の声。
「お前を見ていると、苛立ってくる。それが、一番の理由かもしれない」
憎い相手を見るように、彼女はクリケシュを睨視した。
視線は彼の顔を肩の間を動く。
「……」
クリケシュは、彼を嫌っているようでも、苦しんでいるようにも見える彼女の様子に恐怖するでもなく、その視線を受け取った。
「だから……、お前なんていなくなればいい!」
吐き出すように、彼女は大地を蹴った。
しかし、クリケシュには彼女が与えてくれた時間があった。
彼は、ゆっくりとも見える所作でもう一本の武器――錫杖を目の前に掲げた。
バヂッ!!
低い雷鳴の音が、周囲に弾ける。
「きゃああっ!!」
彼に向かってきていた彼女が、口調とは異なり、女性らしい声を出して後方に飛ばされた。
同時に、その衝撃でクリケシュも大地に倒れこむ。
「な……んだ……!?」
苦しげに、彼女の肢体を地面につけて、彼女が呻いた。
自分の身に起きたことが信じられないように、彼女は目を見開いて呆然としている。
クリケシュは一足早く身体を起こし、懐から一枚の札を取り出し、背後に隠した。
指に挟み、意識を札に集中させる。
彼女が油断しているこの瞬間を逃すわけにはいかない。
だが、札を起爆させるには時間が必要だ。
「君の持っている剣じゃ、この錫杖の持ち主を攻撃することは出来ないよ」
「錫……杖?」
彼女は身を起こし、自分の剣と彼の持つ錫杖を素早く見た。
彼らの持つ武器に共通するもの。
互いの武器の先端には、さりげなくではあったが、全く同じ模様が刻まれていた。
「何故、お前が私の剣のことを知っているんだ」
彼女は立ち上がり、再度身構える。
「仲間割れを防ぐため、剣と錫杖には、お互いを攻撃できないような仕組みがあるんだ」
磁石の対極のように、剣と錫杖は反発し、先ほどのような電撃を起こすんだ。
クリケシュはわざと彼女の問いには答えず、そう言った。
「仲間……?」
彼女はクリケシュの答えに逡巡しつつも、再度彼を睨みつけた。
「何で、お前はそんなことを知っているんだ」
「……」
クリケシュは札を持った指先が熱くなってくるのを感じつつ、無言で微笑んだ。
彼女が、じりじりと戦闘体制を整える。
「お前は何者だ? 私の――何を知っているんだ!」
彼女は、剣を構えて飛び上がった。
「――」
しかしその攻撃は、クリケシュの錫杖によって再度阻まれる。
彼女もそれを予想していたように、吹き飛ばされること無く着地した。
攻撃をするのではなく、苛立ちをぶつけるような行動だった。
「君は、何も覚えていない……?」
「!?」
悲しそうな声が耳に響き、彼女がもう一度飛び掛るのを躊躇したとき。
クリケシュは札を目の前の地面に叩き付けた。
「現夢!」
札から煙が立ち上り、一瞬にして周りに広がった。
「なんだ!?」
彼女は瞬時に発生源である場所から距離を取ったが、煙は彼女の周囲にも広がってくる。
男の狙いが分からず、彼女は躊躇した。
(姿が見えなくても、私はお前が何処にいるかはっきりと分かるんだぞ)
何処で習得したのか、彼女は敵がどの辺りに居るのかを察知することが出来た。
彼女に敵意や怯えを持っている者ほど掴みやすいが、あの男からはそのどちらも出ていない。ただ、何か彼女に強く訴える感情だけがある。
その感情が、敵意や殺意以上に彼の位置を彼女に教えていた。
初めて会った男が、何故これほどに強い感情を彼女に向けるのか。
(分からない)
彼女には、男がよく分からなかった。
そして、自分が何故これほどまでにあの男のことを腹立たしく思うのかも。
彼女には、記憶がない。
森と村人。その記憶しかないのだ。
よく分からない感情は、彼女を苛立たせる。
彼女はその苛立ちをかき消そうと、頭を振って声を上げた。
「――っ、こんなことしようが無駄だ!」
剣を構え、煙が薄い、男がいるはずの空間に足を踏み入れた。
瞬間、煙が霧散する。
「え」
直後、彼女が見たのは、ひょろりとした男の姿ではなかった。
全体的に丸いフォルム。
滑らかに光る肌。
大きな瞳。
肉感的な唇。
しなやかな手足。
「き」
呼吸をするたびに動く喉元。
光に反射する緑色の肌。
『それ』は、大きく息を吸い込むと、一声鳴いた。
「ゲコッ」
低く、空気に染み入るように、大蛙の鳴き声が響いた。
「きゃあああああああああっ!!!!! か、蛙ーー!!!!!!!」
蛙以上に大きな、森を劈く高い声が、響き渡る。
世界の崩壊にでも立ち会ったような、絶叫が彼女から放たれた。
彼女は武器を投げ捨て、耳をふさいでその場にうずくまった。
膝に顔を押し付け、決して蛙の姿が目に入らないよう防御する。
だが。
「うあ……っ!?」
彼女の両腕に、衝撃が走った。
後方へと突然かかる圧力に、彼女は無防備に身体を反らせる。
「きゃあっ!」
続いて、鎖骨部分、額に軽い痛みと圧力がかかり、地面に倒れこんだ。
「な、に……!?」
わけが分からないまま、彼女は立ち上がろうと力を込めた。
「!?」
全く、力が入らない。
痛みの走った箇所を中心に痺れが身体を侵食し、起き上がる力も湧いてこないのだ。
どうにか力を入れようと四苦八苦したが、結局、足が自由になる程度で、上半身は全く力が入らない。
半身に力が入らない限り、足の力のみで起き上がるのは無理だった。何せ腹部に力が入らないのだから、足を上げることすら出来ない。
そのとき、頭上から土を踏みしだく音が聞こえた。
「大丈夫?」
クリケシュだった。
「お前、何をした……!」
口だけは先ほど同様に、彼女は厳しくクリケシュを攻める。
「確かめたいことがあるから、少しの間大人しくなってもらっただけだよ。――相変わらず、蛙が苦手なんだね」
笑って、クリケシュは彼女の顔を覗き込む。
「訳の分からないこと言ってないで、すぐに私を離せ!」
彼女は顔を背けて、立ち上がろうと努力した。それは徒労に終わったが。
そっと、クリケシュが彼女の頬に手を当てる。
びくっと、彼女の身体が身じろいだ。
悲しそうに、切なそうに、クリケシュは微笑したまま動かなかった。
彼女は、その顔を見て叫びが喉の奥に消えるのを感じた。
クリケシュが考えを振り払うように頭を振ると、彼女に覆いかぶさった。
「な、何を……」
彼女は目を驚愕で見開き、クリケシュを見つめる。
「――抱きたい」
平然と、クリケシュは言い放った。
「な、な、な……!!?」
愕然としたのは彼女のほうで、口を開けたまま言葉が形を成さない。
「ふ、ふざけるな! いきなり化け物を強姦する気かお前は! 変態!!」
そのほかにも、彼女は思いつく限りも悪態をついた。
だが、その彼女の抗議は彼の唇に封じられる。
「!!!」
彼女がまず知覚したのは、温かさだった。
唇が、彼のものによって温められる。
僅かに開いた唇が、優しく何度も啄ばまれる。
ハッとして、彼女は慌てて顔を背けようとしたが、クリケシュの手がそれを許さなかった。
両頬を押さえると、彼はより深く彼女に口付ける。
彼女の唇を舌で舐め、食べるように甘噛みし、味わうべく自分の唇で彼女の唇を包み込む。
執拗に、口付けは繰り返された。
「――んん……っ! い、いきなり何するんだ!」
彼女は顔を真っ赤に染め、潤んだ瞳でクリケシュを睨みつけた。
「お、お前、は……っ、化け物フェチか! 若いのに大変だなこのばか!」
何を言っているのか自分でも理解できないほど、彼女は取り乱していた。
言った瞬間、クリケシュの目が冷たく細められる。
「な、何だ……や、やるのか!?」
動きを封じ込められた彼女にできるのは虚勢を張ることだけだったため、彼女は必死に強がった。
「化け物じゃない」
「は?」
彼から言われた言葉に、彼女は口を開ける。
「きみは、化け物なんかじゃないよ」
真剣に、クリケシュは彼女を見つめてそう言った。
「なに、い、言ってるんだ、お前は……」
彼女には、彼の言葉が信じられなかった。
何度も、森で出会う人々は、彼女を『化け物』と呼んで逃げていった。
悲鳴を上げられ、恐怖に歪んだ顔を向けられ、彼女は一月程孤独に過ごした。
隣の村の人々は、数回森で獣に襲われているところを助けたら、悲鳴を上げて逃げることはなくなった。
それが嬉しくて、彼女は彼らをより真剣に、守ろうと思ったのだ。
だから、自分が化け物だということは分かっている。
「君は、化け物なんかじゃない」
それでもクリケシュは、繰り返し言った。
「どう見ても……化け物じゃないか。見逃していたなら今ちゃんと見ろ。首の離れた人間など、何処にいる?」
人間。その言葉が飛び出しても、クリケシュは不思議に思わなかった。
「腕のない人間なんて、何処にいるんだ」
彼女は自嘲的な笑いを浮かべて、言った。
クリケシュは彼女を笑うことなく、覆いかぶさったまま自分の指先を口に含んだ。
顎に力を混め、指先を歯で傷つける。
口から指先を出せば、赤い血が滲んでいた。
「何してるんだ、お前……!?」
先ほど彼を殺そうとしていたにも関わらず、彼女は困惑の声を上げた。
彼は、身を起こすと彼女の両腕の切れ間――胴と腕が切り離されている部分に、血の滲んだ指先を当て、赤い線で文様を描いた。
何語か聞き取れないほど小さく彼が呟くと、彼女の離れた腕が胴に近寄り、密着した。
「!?」
それは両腕に起き、彼は同じことを首にも行った。
黒と白の線が切断箇所に刻まれている以外、彼女の外見は人間そのものだ。
「これなら、問題はないね」
軽く息をついて、彼は言った。
彼女は信じられないようなものを見るように、彼の瞳を見ていた。
彼は彼女の両腕を頭の腕に動かすと、その首元に口付ける。
「なんで、お前、どうやって……」
言いたいことがはっきりせず、彼女はうわ言のように呟いた。
クリケシュは音を立てて彼女の唇に口付けると、小さな声で「いいから黙って」と言った。
「よ、よくない……! こんなことすぐに――ひゃあっ!」
とりあえずクリケシュの動きを止めようと、彼女は抗議をしようとしたが、彼の手が敏感な胸に乗せられると、高い声を漏らした。
「話は後。――……頭が覚えていなくても、心と身体は忘れない」
諭すようにクリケシュは彼女に囁いた。
彼女は理由も分からず、彼の声に黙らされてしまった。
いかに頭では『何故』と大声を上げていても、それが口をついて出てこない。
そのうち、クリケシュは彼女の首元を啄ばむように口付けながら、彼女のシャツのボタンに手をかけた。
「っ」
素早くボタンを外され、彼女のシャツが開かれる。
風が肌をさらい、無意識のうちに熱くなっていた肌を少し冷ました。
クリケシュが、右手で彼女の乳房をこねるように撫で上げ、左手の指の腹で、胸の頂の周りを桃色のふちに沿ってなぞる。
微かに先端に触れる指に、彼女は身を振るわせた。
彼から与えられる刺激に彼女は敏感に反応し、まだはっきりと触っていないにもかかわらず、両胸の蕾は小さく尖り、桃色の頂を覗かせていた。
彼女は嫌悪感が湧かないことに混乱しながら、息を弾ませて意識せずに彼を見つめている。
クリケシュは自然と笑みがこぼれるのを感じつつ、舌を尖らせて蕾を弾いた。
「ひゃ、ん……っ」
彼女は目をつぶって、声を漏らした。
声を出してしまったことを恥ずかしく思ってか、頬が朱に染まっている。
「――やっぱり、可愛いね」
「え……ぁんっ!」
『やっぱり』とはどういうことか尋ねる前に、クリケシュが胸の頂を口に含んだせいで、彼女の疑問は霧散した。
音を立てて、彼女の乳首を吸い、甘噛みしては舌で転がす。
(絶対こいつわざとだ!)
そう彼女が確信するほど大きな音を立てて、彼は彼女の先端に吸い付いていた。
「はぁ、んん……っ」
声を抑えようと意識しても、ちゅっと音を出して蕾を吸い付き、乳房ごと吸い上げられて急に離されると、先端への刺激と乳房の揺れで彼女の声は抑えるどころか大きくなってしまう。
それを微笑ましく、そして扇情的に彼女を見つめながら、彼は左手を乳首ごと乳房に押し付ける。
「ん、ぁ……んんっ」
指で先端を押し込みながら、乳房を円を描くように揉みしだく。
彼女は唇をかみしめながら、熱い吐息を漏らしていた。
唾液で濡れる蕾が、より情欲を掻き立てる。
クリケシュは彼女のスラックスの金具に手をかけると、音も立てずに外して、彼女の脚から抜き去った。
「ちょ、やだ……」
「聞いてあげない」
羞恥からか嫌がる彼女を楽しそうに見上げると、クリケシュは軽くキスして手を下着の中に差し入れた。
「きゃあっ」
クリケシュが柔らかな恥丘を撫で、その下の花園に指を差し込むと、彼女から嬌声が漏れる。
「――熱いな」
熱を帯びた息を吐きながら、クリケシュは呟いた。
彼女は『幽霊』と言われる存在なのに、身体は驚くほど熱い。
それが、彼には逆に悲しかった。
くちゅりと、指が彼女の秘所に埋もれる。蜜を潤滑油に、指は抵抗無く奥へと沈んだ。
「ぁ――っ」
ざらざらとした膣壁が、奥へと導くようにクリケシュの指に絡みつく。
自身を入れた時の事を考えて、クリケシュは痛いほど自分が猛っているのを感じた。
「我慢しなくていいよ」
クリケシュは彼女の耳元で呟くと、秘所の入り口で尖る肉芽を擦るように、指を出し入れする。
「ぁあっ、あっ、んんっ、ふぁ……っ」
我慢できなくなったのか、彼女が喜びの声を上げる。
彼女の声が漏れるたびに花芯も収縮し、指を食べられそうだとクリケシュは思った。
何度か挿入を続けると、彼女の脚がぴくぴくと震えた。
じわりと彼女の肌が潤いを帯びる。
クリケシュはその反応を愉しむように、指を小刻みに動かして彼女の蜜壷を突く。
「ひぅ、うんっ、んっ、あぁん……っ」
クリケシュの掌は、彼女の愛液でぐっしょりと濡れている。
だんだん彼女の声が高く、大きくなるのを感じて、クリケシュは指を挿し抜いた。
「え……?」
うつろとも言える瞳で、彼女がクリケシュを見つめる。
「いかせてあげようかとも思ったけど……やっぱり、僕で、ね」
言うが早いか、クリケシュは彼女の下着を引き締まった脚から外すと、自分の下穿きに手を当てた。
彼の動きを目で追う彼女を気にすることなく、下穿きの間から、屹立した男性器を取り出した。
「っ」
悲鳴を上げる気すら起きないまま、彼女は固く膨張した肉棒を見つめている。
先端からは透明な液が漏れ、彼のものを光らせていた。
「そんなに欲しがらなくても、ちゃんとあげるよ」
クリケシュは困ったように笑って、彼女に身体を密着させた。
「どうい――ああっ!!」
プチュリと大きな水音を立てて、彼の分身が彼女の秘所に差し込まれる。
十分に熟れていた彼女の花園は、全く抵抗することなく彼の男根を奥へと導いた。
太い棒が、彼女の狭まっていた膣を押し広げる。
「うぁ…………すご、いね……」
指ではなく、ぴったりと性器全体に絡みつく襞に刺激され、クリケシュは今にも果てそうだった。
その射精感を抑えようと、彼は一気に根元まで彼女の中に差し込んだ。
「ひあっ!!」
「そんなに……っ」
いきなり突きぬかれた彼女は嬌声を上げ、ぎゅっと下腹部に力を込める。
その愛撫に刺激され、クリケシュは下唇を噛んで衝動を抑えた。
そのまま、二人とも荒い息を重ねる。
(やば……やっぱり、無理かも)
あっさりと我慢を諦め、クリケシュは満面の笑みで彼女に微笑みかけた。
いぶかしむ彼女の言葉を聞く前に、クリケシュは彼女の唇に食らいついた。
「んんっ!」
数回彼女の唇に吸い付いた後、舌を差し入れ口内を強引に犯す。
そのまま、彼は律動を開始した。
「んっ! ふぁっ、あっ、んんんっ!!!」
もはやどちらが強く求めているのか分からないほど、お互いに唇を寄せ合い、舌を絡ませる。
息継ぎのために唇を離すたび、お互いの息がかかり、声が漏れた。
クリケシュが硬い陽根を突き刺すたびに彼女は秘所を締め、互いに快感を高めていった。
徐々に迫ってくる快感の波を抑えようと、二人は口付けを繰り返す。
(分かんないっ、何だ、何か、覚えてるのに……っ)
彼女の頭に、快感と陰が上ってくる。
嫌悪していいはずのこの行為が、彼女に違う思いを引き起こした。
彼女は、確かにこの感覚を覚えている。
――自分の記憶など、何一つ持っていないにも関わらず。
「んくっ、んっ、はぁんっ、ぁあっ!」
快感で考えることなど出来ないはずなのに、彼女の脳裏に誰かの姿がちらつく。
お互いの愛液が大きな水音を立て、その音が余計に羞恥と劣情を誘った。
クリケシュは彼女により身体を密着させ、腰を引いて強く何度も突き上げる。
「ぁんっんっああっあぁんっ!!」
彼女の脚を大きく開き、自分の身体ごとクリケシュは自身を彼女に打ち付けた。
二人の吐息と交わる音が辺りに響く。
耳に入るのが行為の音だけのせいで、より熱情が高まった。
快感で意識が混濁するのが嫌で、彼女は夢中でクリケシュの口付けを求めた。
その表情に、クリケシュは思わず呟いた。
「シ……ルケ……っ」
「!?」
瞬間、彼女の頭の中で何かが弾ける音が聞こえた。
それにもたらされる物を確かめる前に、クリケシュの与える衝動が極限を向かえた。
ひときわ強く、彼女の奥まで含めて一つに繋がれようとでもするように、クリケシュは彼女の身体が動くほどの力で、突き上げた。
「んんっ、ああああああ……っ!!!!」
彼女は絶叫し、膣を収縮させた。
「ぅあ…………っ!」
クリケシュの男根がびくりと震えると、熱い精を彼女の中に注ぎ込む。
「あ、あ――っ!!!」
何故か懐かしいと感じる想いが、身体中を駆け巡っていく。
『シルケ』
苦しいほどの愛しさの中で、彼女を抱き、彼女の名を呼んだ人間が、かつていたのだ。
彼女の意識が、弾けた。
『――リック……』
窓から表を見つめて、“彼女”は呟いた。
雪の舞い散る朝、“彼”は出かけていった。
昨夜、遠方も遠方、遠く離れたある村が、魔獣の群れに襲われた。
本来駆り出されるはずの僧兵は、タイミングの悪いことに、手の空いている者が殆どいなかった。
折りしも翌日、この教区を束ねる教区長の息子が、初めて依頼をこなしに行くことになっていたのだ。
(ボンボンはボンボンらしく後ろで布団被って寝ていろ馬鹿息子)
いずれ教区を継ぐことになるその男は、女遊びに耽るだけで何の修行もしてこなかった。
しかし教区長になろうという人間が、一度も依頼を解決しないのではいい笑いの種。
そこで教区でも力のある僧兵を集め、馬鹿息子の警護に当てて一応は対面を整えようと、馬鹿な父親は考えたのだ。
そのせいで今、稼動できる僧兵は限られていた。
それゆえ、殆ど現場に出ていない僧侶までもが駆り出され、“彼”も向かうことになったのだ。
この教区で僧兵長を務める彼女は、馬鹿な次期教区長のせいで、魔獣に襲われた村に向かうことは出来なかった。
長い金色の髪を風に揺らし、彼女は人目を惹く顔を歪めて、ただ祈った。
『お願いだから、帰ってきて――クリケシュ』
“彼”――数年前のクリケシュは、彼女の祈りのおかげが、怪我を負いつつも生きて帰還することが出来た。
『シルケ!』
急いで、彼は彼女の元へと駆けた。
今回の討伐は、数人の犠牲者を出してしまったが、討伐経験の無い僧侶を多く含んでいたことを考えれば、成功と言えるものだった。
彼も、最初は恐怖で動けなかったものの、すぐに的確な補助を行えるほど冷静であることが出来た。
その成果が認められ、一段階、昇進させて下さるとまで言われたのだ。
どこか誇らしくて、彼はすぐに彼女に話しに行こうと駆けていた。
『シルケ! 僕――』
彼の言葉は、続かなかった。
僧兵長である彼女の執務室に、想い人の姿は無かった。
『え……?』
討伐の前に見た、彼女の執務室とは、明らかに様相が異なっていた。
彼女が座っているはずの椅子に腰掛けた男性が、クリケシュを見据えた。
『クリケシュ・ヒーリー……』
唇が切れるのではないかと思うほど、男は口をかみ締めて、席を立った。
クリケシュは、一歩後ずさった。
何故そうしたのかは分からない。
目の前に居るのは、長年彼とシルケを見守り、叱り、育ててくれた人間にもかかわらず。
『シルケは――』
数瞬後、クリケシュは執務室から逃げ出した。
教会を走る彼には、廊下も扉も大地も雪も、何も見えなかった。
ただ、彼女の怒った顔、不機嫌な顔、笑った顔、照れた顔。
そして、彼が出かける前夜に見た、彼を求め感じているときの顔が、浮かんでは消えていった。
『嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!』
何度も転び、何度も身体を傷つけて、彼は一点を目掛けて走った。
討伐で負った傷の痛みも、凍えるような寒さも、悲しみも感じなかった。
そして辿り着いた墓所で、彼は一番目にしたくないものを見つける。
“シルケ・ウィットロウ”――ようやく想いを通わせた、彼女の名が刻まれた墓碑を。
クリケシュは、見たものを受け入れられなかった。
同じ村から教会に入ったシルケとクリケシュ。
二人は喧嘩しつつも互いを励まし合い、育ってきた。
あまりヤル気のないクリケシュを置いて、努力家で真面目なシルケは僧兵としてみるみる力をつけていった。
そしてやがて、若過ぎることや女性であることすらも跳ね除け、僧兵長の座についた。
クリケシュはそんな彼女が誇らしくも、引け目を感じるようになった。
自業自得とは言え、素直に彼女に近づけなくなっていった。
『幻教』の僧は階級制になっており、星の数で地位が分かる。
彼は星3、彼女は星7……その差はあまりも広かった。
情けなくて、彼女を想っていても、とても気持ちなど伝えられなかった。
だから彼は、こっそりと修行を始めた。
剣は向いていないし、今更彼女に勝てるとも思えないから、札術を極めようと決意した。
彼女は僧兵。彼は僧侶として彼女を守ろうと決めたのだ。
そして、遠く離れた村から緊急依頼が入ったとき、決めた。
無事に帰ってきたら想いを告げよう、と。
でも、あっさりそれは打ち砕かれた。
出発前夜、緊張と怯えで震えるクリケシュの部屋に、彼女が忍び込んできた。
行くなと言われ、負傷で行けなくしてやると脅された(あのときの彼女の目は本気だった)。
それでもクリケシュは彼女を説得し、凶悪な表情をする彼女を一生懸命慰めた。
そのとき、思わず言ってしまったのだ。
『好きだから、シルケと釣り合う男になりたい』と。
その後素手で殴られたが、十年ぶり位に涙を流すシルケを放っておけなかった。
結局シルケから、彼女の初めての男になるという幸運を授けられ、クリケシュは討伐に出かけていったのだ。
戻ってきたら、胸を張って彼女の横に立とう。
例えごく小さな一歩でも、彼にとってはこの上なく重要だったのだ。
一歩一歩進んで、そしていつかは彼女を自分が守り支える……小さくて大きい、彼の夢だった。
だが……そんな彼女は、もういない。
その事実は、クリケシュを打ちのめした。
虚ろな目で墓を見つめ、クリケシュはその場に倒れこんだ。
雪が、彼の身体を包み、白亜の中に埋めていった。
再びクリケシュが目覚めたのは、それから三日後のことだったらしい。
生きる希望も食欲も無くしたクリケシュに、僧兵長の座に戻った、育ての親とも言える男性は、シルケの身に起きたことを話した。
教区長となる予定の男――現教区長の息子が、簡単すぎる依頼をこなした夜、シルケを夜伽の相手に任じた。
酒宴の席でシルケに色目を使い、肌を撫で、しなやかな身体に口を寄せた男に、シルケは踵落しを食らわせ、ここ数日で溜まっていた本音をぶちまけたらしい。
そんな単純な理由で、彼女は反逆と殺人未遂の罪で処刑された。
――聞いた瞬間、クリケシュはその馬鹿息子を殺してやると叫んで飛び出そうとした。
勿論それは僧兵長に止められたが、殺意を抱いて暴れ狂うクリケシュに、僧兵長は続きを言って聞かせた。
シルケの身体が、忽然と姿を消したのだ、と。
僧兵長はシルケの刑の話を、血が出るほど手を握り締めながら続けた。
シルケはまず腕を切り落とされ、息子への謝罪を要求された。
助かりたかったら愛妾となれと命じられた彼女は、即座に断った。その際、聖職者とは思えない罵言を言ったらしい。
そのせいで、シルケは反対の腕まで落とされた後、その細い首に、剣を下ろされた。
だが、多くの部下が涙を浮かべ、掌を傷つけてまで怒りを抑える中……彼女の姿が掻き消えたのだと言う。
僧兵長は続けた。
彼女は、死んでいるかもしれない。何らかの形で生きているかもしれない。
どちらにせよ、もしかしたら、クリケシュならシルケを見つけることが出来るかもしれない、と。
『くそ息子を殺して処刑されている暇があったら、シルケを見つけに行け』……そう、彼はクリケシュに言った。
だからクリケシュは、死に物狂いで修行し、力をつけ、流れ僧兵になる道を選んだ。
全てはシルケに会うために。
「……リック」
そう彼女――シルケが言った瞬間、クリケシュは目を見開いて止まった。
「リック。クリケシュ」
シルケは、聞こえなかったのかと思い、もう一度名前を読んだ。
「クリケシュ・ヒーリぐえっ」
彼の名前をさらに読んだシルケは、突然ものすごい力で抱きすくめられ、悲鳴を上げた。
裸の胸に、クリケシュの頭が摺り寄せられる。
「――ケ」
小さな、震える声が、彼女の胸元から聞こえてきた。
「リック」
呼べば、彼女を抱く腕に、さらに力が込められた。
「シルケ、シルケ、シルケ…………っ」
くぐもっていても、確かに彼女を呼ぶ声が聞こえる。
彼に触れたくて、シルケは腕に力を入れた。
腕に痺れは残っているが、ぎこちなくとも動かすことが出来そうだ。
シルケは胸に押し付けられた彼の頭を、震える腕で抱いて、髪を撫でた。
「リック」
「シルケ……っ」
熱い雫が、ぽつぽつとシルケの胸に零れ落ちる。
シルケは力を込めて、彼に身体を寄せた。
彼らが別れてからどんな出来事や年月が間に挟まっても、こうして今再会できた事実だけは確かにある。
……どれほど、そうしていただろうか。
どちらともなく、二人は身体を離し、お互いの顔を見つめた。
「……会いたかった」
泣き笑いで、クリケシュは言った。泣くなんて情けないと思いながら。
ちろりと小さな舌で彼の涙をぬぐい、シルケが答える。
「私もだ。……ちゃんと、生きて帰ってきたんだな」
逆にクリケシュが、彼女の目元に唇を押し当てる。
「うん……シルケを、残して逝けるわけない」
言ってから、クリケシュは後悔した。
それでも、続きを言わずには居られなかった。
「どうして……僕を置いていったんだよ、シルケ……っ」
再び、彼女を離すまいときつく抱きしめ、顔を首元に埋めた。
目頭が、熱い。
どんなに情けないと思われても、クリケシュは顔を上げることが出来なかった。
独りになんて、なりたくなった。
「……『右手に慰めてもらえこの色豚が』」
「……」
クリケシュは、目の前で吐かれた暴言に絶句していた。
「……シルケ、まさか、そんなこと面と向かって言ったの?」
「当たり前だろ。あいつが私に何したか知ってるのかお前は。殺せるものなら瞬殺したぞ私は」
気が重くも処刑された理由を彼女に聞きだしたクリケシュは、筆舌しがたい表情で彼女を見た。
いくら夜伽の相手を断られたといっても、即死刑はないだろうと思ってはいたが、彼女は先ほどの悪言を未来の権力者に向かって言いのけたそうだ。踵落とし付きで。
「でも、別に……」
処女でもないわけだし……そう言おうとして、クリケシュは口を閉ざした。
「――僕だって、あの脳崩壊男が君に触れると思っただけで呪いたくなるよ。殺してやりたいと何度思ったかわからないし、今でも思ってる。でも――」
彼女を永遠に失うくらいだったら。
そう思うのも事実だった。
「馬鹿」
「いてっ」
手とうを食らわせられたクリケシュは、思わず涙目になった。彼女は馬鹿力だった。
「処女じゃないから余計に嫌だったんだ」
「?」
わけが分からず、クリケシュは聞き返す。
「何でリックに抱かれた後であいつにヤられなきゃいけないんだ。リックの気配が身体から消えるじゃないか」
「………………」
あまりにもな理由で、リックはさらに絶句した。
くすぐったいと同時に、罪悪感が彼を襲う。
「……あのとき、シルケを抱かなければ良かったのかな……?」
間接的とは言え、彼自身が彼女を死に追いやったのだろうか。
そう考えると、足元から地面が崩れていく気がした。
「大馬鹿」
今度は先ほどよりも強く、掌で叩かれた。
「何であの色ボケに処女をやらなきゃいけないんだ。リックのために20年以上貞操を守ってきたんだぞ!」
今度こそ、彼は何も言えなくなった。
「あのとき、ようやく! ……そう思って、私は嬉しかったのに」
ただ、彼女をきつく抱きしめた。
考えなければいけないことは山ほどある。
それでも、今は彼女だけを感じていたかった。
この瞬間は、純粋に彼女との再会を喜ぼう。
クリケシュは、彼女の熱を感じながら、目を閉じた。