「け」 けもの道に赤い跡

※Special thanks to you! (強奪リクワード:赤い靴)


 ――苦しい。

 
 喉が焼け付くような飢えだけが頭を占める。
 理性も心も、全て飢餓感に上塗りさえ、時間すらも感じることが出来ず、『私』という存在全てが黒塗りにされるようだった。
 年月を重ねるほどに、発作時の飢餓感は増していき、回復という希望の光は一筋たりとも見えない。

 喉を押さえ、地面の上で苦しみにもがきながら、ひたすら何かに祈る。


 雲ひとつ無い夜に輝く月が、残酷なまでに苦痛に歪める顔を、姿を照らしていた。


 満月の晩に襲われる飢餓。
 助けも無く、頼る者も無い、孤独な戦いに、心はもう折れそうだった。

(まだ、たった2年だ)

 “発病”からたった2年。
 月が満ちる度、誰かを捲き込まない様に、森の広場へと逃げ隠れた。

 そして一晩、増すだけで決して引きはしない飢えと枯渇感に、喉を押さえ、地面を転げ、ただ堪える。


 それは治ることの無い、絶望的な病だった。


「うあ、ぁ……っ、ぐ、ぃ、ぁ……っ」

 この眩しいほどに輝く満月の今晩も、フィリエは涙を滲ませながら、その病と闘っていた。


 ――ああ、血が欲しい。


 絶望的なまでの欲望が、彼女をただ襲う。



 ◆



 それは満月のたびに。

 月に照らされた森の中に、突如闇の塊が出現した。
 霧状に漂っていた闇は段々と一箇所に集まり、一つの形を作るべく隊を成していく。

 集約した闇は、やがて大きな獣の姿へと変じ、静かに草の上に足を下ろした。

 『彼』が地上に出てくるのは、一月ぶりだ。

 月が闇を最も照らす一晩だけ、彼は地上に姿を現す。
 闇の中から地上に出る事が光栄か侮辱かは、彼自身にも分からない。
 今はただ、一月毎に繰り返される、単純なサイクルという認識でしかない。

 穏やかな風が音を立てて、木々の間を抜けていく。

 風は好きだ。彼はそう思う。
 彼が住まう闇の中には、平穏がある代わりに変化が無い。暖かな、真綿で包まれたような静けさだけが彼の闇にある全てだった。

 だからだろうか。彼は風が好きだった。
 変化を繰り返しながら世界を駆けていく風は、彼の闇の中には無いものだ。

 涼しげな風が、闇を編んだような彼の漆黒の毛を揺すり、額に生えた乳白色の一角を撫でていく。

 角の生えた黒狼の姿をした彼は、銀色の瞳を月に向けた。
 彼の闇を暴く光が、煌々と振り注ぐ。
 その光に対して抱く感情は、代わる代わる色を変え、彼にすら分からなかった。

(……?)

 そよぐ風に目を細めていた彼の耳に、聞きなれない音が聞こえてきた。

 か細く、断続的に続く音。
 悠久の時を闇と自然とだけ相手に生きてきた彼には、耳慣れぬ音。

 何を考えるでもなく彼は浮き上がり、音の方向に角を向けた。



 ◆



「い、ぅう……っ、ぅぁ……!」

 フィリエは、目に涙を浮かべながら、ひたすら衝動に耐えていた。
 全く望んでなどいないのに、血が欲しくてたまらない。

 しかし、人間としてのフィリエは、そんな化け物のような自分を心の底から嫌悪……憎悪していた。

(月がまだ、あんなに……)

 涙で歪んだ視界の中、雲ですら避けるように、月は漫然と天空に輝いていた。

 満月の晩だけフィリエを苦しめる病は、年月と共に彼女の身体に根深く浸透し、満月の夜を重ねる度に苦痛を増していく。
 今ではもう、全ての感覚を凌駕するほどの渇きが、熱を伴って彼女を襲うようになった。

 ――渇血病。

 フィリエの侵されている病は、それだった。

 原因不明の難病であり、同時に迫害の対象となる病でもある。
 病魔に侵された者は、満月の晩になると他者の血を求めるようになり、吸血をすればするほど、血への欲求は増す。やがては満月の晩という枠すら壊して他者を襲うようになる……不治の病だった。
 ひたすらに血を求める姿は、ただの化け物としか映らず、駆逐の対象となる。

 その為に、渇血病は死病と認識されていた。……それも、人々の手による死病だった。

 だからこそ、フィリエは人知れず深い森の中でただ一人、病に苦しんでいた。
 声を押し殺すようにして。


 そんな彼女をせせ笑うように降り注いでいた月の光が、ふと遮られた。
 彼女の顔に、影が差す。

「……っ……?」

 息も絶え絶えにフィリエが影の方向を仰ぎ見れば、そこには一つ、巨大な『影』が佇んでいた。


「っ!!」


 その一瞬だけ、フィリエは激痛を忘れた。

 『影』だと思ったものは、影ではなく、『獣』だった。
 闇と見紛うばかりの漆黒の毛をまとった、銀色の瞳の四足。狼かと思われる鋭い容貌には、輝く乳白の角。他を惑わす者が『魔』と呼ばれるならば、それは一筋の疑いを抱かせることすら無い、『魔物』だった。

 その魔物は、言葉すら、息をしていることすら感じさせないほど静かに佇み、ただフィリエを見下ろしていた。

 意識を奪われたのも一瞬のこと、フィリエは慌てて喰われまいと魔物を睨みつけた。

 病と闘うのも、魔物と対峙するのも、ただ生きたい一心だった。


 どれほどの時間をそうしていたのか分からない。
 お互いの瞳を合わせたままの両者の間に、時間だけが流れていった。


 フィリエはその間もずっと、苦痛に瞳を揺らしながら、白銀の光を見据えていた。
 やがて、何を思ったのか魔物が頭を垂れた。

 直後、香しい『匂い』がフィリエの鼻孔に届いた。

「――」

 頭を横殴りにされるような痛みと動悸が、彼女を襲った。
 同時に、地面に横たわり、投げ出された左腕の指先に、温かな熱が触れた。

 魔物を見つめていた目を指先に落とせば、温かな水が指先に絡み付いていた。
 鉄の匂い。不愉快な、鼻につく匂い。


 ――……それ以上に、なんて“芳しい”。


「っ!!」

 それが血の匂いであることを理解した瞬間、フィリエは強烈な吐き気に襲われた。
 飛び上がるように身体を起こし、魔物から距離を置く。

「う、あ……っ!」

 一日中嗚咽と苦痛に襲われていた彼女にとって、急激な動きは身体を痛めつけた。
 声を漏らして、前かがみに地面に崩れ落ちる。

 顔だけ上げ、魔物を見れば、魔物がゆっくりと頭を上げるところだった。

「なっ……!?」

 血が流れ出る元には、魔物の太い足があった。


 ――輝く一角を、その足に突き立てて。


「何して……っ!」

 驚愕に目を見開き、身体が悲鳴を上げるのも厭わずに、フィリエは魔物に駆けつけた。
 右腕を上げ、魔物に触れる寸前、ふと我に返り手を止めた。

 フィリエには、自分が何をしようとしているか分からなかった。

 敵か味方かなど分からない魔物に近づくだなんて。
 いや、味方であるわけがない。

 渇血病であるフィリエは、この瞬間にも血の匂いで気が狂いそうだった。
 そんな狂気の中で、彼女は魔物の真意を考えた。
 しかし、混乱した頭では、魔物の意思など考え及ぶものではない。

 ぐちゃぐちゃと混ざる思考に振り回される彼女の目の前で、魔物は緩慢な動作で角を引き抜いた。

 止まりかけていた血が、どくりと流れ出す。

「ちょ……っ」

 待ってよ、そう言いかけながら、フィリエは大慌てで魔物に近寄り、手で魔物の傷を覆った。
 足に触れた彼女の手に、温かい血と、絡みつく毛の感触がする。

 魔物の脈に呼応するように、フィリエの手の隙間から、血が染み出てくる。

「どうし、よ……う……っ」

 蠱惑的な血に思考を奪われながらも、フィリエは血を止めようと周りを見回した。
 血止めに役立つような物は、何も無い。
 フィリエが血の誘惑と苦痛から逃れようと暴れた為に、荒れてしまった草地しかない。

 困りあぐねたフィリエは、すがりつくように視線を正面に向けた。
 直後、銀色の瞳とかち合った。

「っ」

 魔物からは、何の表情も読み取れない。
 治まらない出血すら何の影響もないかのように、魔物はただフィリエの様子を観察している。

 彼女も、これ以上無いほど目を見開いて、魔物の瞳を見つめた。



 ◆



 娘が、真っ直ぐに彼を捉える。

 随分と久方ぶりに出会う他者は、脆弱と言える程にか弱いヒトの娘だった。
 震えながら彼の足を覆う両手は、簡単にへし折れそうなほど小さく見える。

 少々浮ついた気分になっているのが、彼は自分でもよく分かった。
 久しぶりに、時間をつぶせそうな相手に会ったからだろうか、それは彼にも分からなかった。
 
 強くなりすぎた月の光が闇の力を殺ぐせいで、彼は望まずとも満月の晩は地上に姿を現さなければいけない。
 地上にきた際に生き物に出会うことはあっても、生き物は、彼を恐れて姿を見るなり姿を消す。
 動物は本能から、ヒトはこの異形の姿から、彼を恐れる。 

 しかし、今夜の客はやや毛色が違ったようだ。

 驚きか、恐怖か。それとも違う感情によってか瞳を揺らしながらも、娘は反らすことなく彼を見つめ返していた。

 誰にも気付かれぬ程僅かに、彼はヒゲを持ち上げた。
 そっと傷ついた足を動かし、彼女の手を振り払うように持ち上げた。

 ぴちゃりと、血が大地に滴った。

「!!」

 娘が、さらに大きく目を見開き、そして何かに抗うように目を細めた。
 眉間に皺を寄せ、歯を食いしばるように荒い息をする。
 濡れた大地に手を下ろしたまま、彼女はぜいぜいと呼吸をしている。

 ……まだ、逆らおうとするとは、彼はそう思った。

 何も、娘が苦しむ所を見たいが為に、血を流したわけではない。
 彼は、一目見た瞬間に、娘を蝕むものは渇血病と呼ばれる病だということに気がついた。
 むしろ、一般に周知されている噂等よりも遥かに、彼はその病を知っていた。

 だから娘がしていることが、血を欲する自分を抑え込もうとしているという事も、多くの先達のようにそんな自分を嫌悪している事も分かっていた。
 何故こんな夜中に、人目を避けるが如く森の奥深くにいるのかも。

 しかし渇血病を知っているからこそ、血を拒むべきではない事も彼には分かっていた。
 それゆえ、ただの気まぐれだと分かっていながら、彼は自分の血を流したのだ。

「いら、ない……、そんなの……っ」

 娘は自分に言い聞かせるように、目を閉じ俯いて呟いた。

 渇血病の者は血を摂取するまで、喉を焼くような渇きと、全身に強烈な電撃を喰らうに勝る程の苦痛が続く。
 だからこそ多くの者は、迫害されると分かっていても血を求めずにはいられないのだ。たとえ心から忌避していても。

 娘の地につけた両手は小刻みに震え、額からは汗が伝わり落ちる。
 血の衝動が凄まじいものであることが、その様子から簡単に見て取れた。

 それでも、ヒトとしての心を守ろうとするか。
 彼は小さく息を吐き、呆れと同時に感嘆の念を覚えた。
 これほどひ弱な娘であるのに、その見た目ほどに心は小さくないようだ。

 彼は、そっと内に力を込め、内包した闇を僅かに解き放った。

「ひっ、ぁ……っ」

 びくりと、娘が身体全体で震えた。

「う、く」

 娘は血に濡れた腕で自分の身体を抱きしめ、唇を噛んで今にも動いてしまいそうな自分を律している。

 彼は一歩だけ足を進めると、彼女の葛藤を打ち払うように、その角で彼女の頬を撫でた。

「!!」

 濃密な闇と月光、そして恐怖は、ヒトの思考を奪う。
 血に抵抗する意思も、例外ではない。

 冷たく硬い角で頬を撫でた後、彼は彼女を見つめたまま彼女の首筋に舌を這わせた。

「ぃ、……っ!!」

 弾ける様に身体を振るわせた後、彼女は姿勢を崩し、前のめりに倒れこんだ。

「ひ、ぁぁ……」

 喉から漏れるような息を数度吐いた後、娘は意思を無くした様にぼうっと彼の足元を見つめた。
 そして、ゆっくりと……彼の足に顔を近づける。

 ……何故そうしたのか。
 彼は、自分の足元に顔を近づけ、小さな舌を出して恐る恐る血を舐める娘に、頭を横から押し付けた。

 しばらくの間、娘は渇いた喉を潤すように、ちろちろと舌を這わせていた。

 決して痛みがあるわけではない身体に、ある種の感覚が走るのを彼は感じた。
 何を考えるでもなく、娘の所作を見つめる。

 始まった時と同様、突然娘は意識を戻したように顔を上げた。

 顔は先ほどとは変わり、年頃の娘らしい血色を取り戻している。
 ただ、目は驚愕と不安に彩られ、唇は震えていた。

「わた、私、なに……」

 自分が何をしたのか、頭が理解するのを拒んでいるようだった。

 ――これ以上留まるのは、得策ではないな。

 彼はそう判断した。
 娘が呆然としているのを見やると、彼は足を曲げ、そして飛び立った。

「!」

 娘が我に返ったように自分を見るのに気付きながら、彼は風でかき消されるように闇に消えた。
 その闇ですら、瞬く間に夜に霧散する。

 痛いほどの沈黙が降りる闇夜の森に、娘一人が残された。



 ◇



 フィリエは、ベッドの中でひたすらじたばたと、もがいていた。

(何だったの何だったの何だったの何だったの……っ!)

 あれからフィリエは、強烈な眩暈に襲われ気を失った――と言うより眠っていた。
 硬い地面で眠ったためにギシギシと痛む身体を起こせば、すっかり夜が明けていた。
 その後は、茫然自失としたまま家に戻ってきたのだ。

 そのまま疲弊した身体を休めるべくベッドに入りはしたものの、気が昂ぶっていて眠れないまま今に至る。

 2年間我慢してきた吸血をしてしまった自分への嫌悪。
 通常よりも遥かに良い体調への心地よさ。
 ……化け物へと成り下がっていく未来に不安が無いわけがないのに、陰陽の気持ちが混ざり合い、どちらもが主導権を握ることなく今も煩悶とさせられていた。

 それは恐らく、あの魔物のせい。

「ま、もの」

 恐る恐る、フィリエは口を手で押さえながら呟いた。

 あれ程に恐ろしく、綺麗な生き物をフィリエは初めて見た。
 闇色の毛と、銀色の瞳は、対立しながらも美しかった。

 襲われるかと思ったのに、魔物は何故か自分の足を傷つけ、フィリエに血を与えた。
 まるで、フィリエが血を欲しているのを見越したように、だ。

「何だったの、あれは……」

 恐い。
 あれ程までに透き通った瞳を持った生き物が、フィリエは恐かった。

 脳裏に浮かぶのは、何の感情も浮かばぬままに血を流し、フィリエを見つめた魔物の姿。
 無感情なあの魔物が、彼女に対し何を考え、思ったかが分からないからこその恐怖が、フィリエの中に渦巻いていた。

 でも、それ以上に。

 フィリエは、自分の胸を押さえつけた。
 起きてからずっと、高鳴り続ける心臓が、一番フィリエを混乱させた。
 魔物に抱くのは恐怖であるはずなのに、この心臓は魔物のことを考えるだけで早鐘を打つ。

 これは恐いからなんだ、不安だからなんだ……そう自分に言い聞かせるのに、フィリエは全力をとしていた。

 一度他者の血を吸ってしまったフィリエには、もう普通の道には戻れない。
 吸血は衝動を封じ込めるが、次の満月にはより渇望の度合いを増すという。そうして、渇血病の患者は化け物へと変貌していくのだと。

 ぎり、そんな音がするほど強く、フィリエは歯をかみ締めた。

(……次は)

 次の満月は、どうなるのだろう。
 フィリエは、ただそれだけが他の感情を凌駕していくのを感じていた。
 


 ◇



 闇の中で、彼は考えた。

 あの娘はどうなっただろうか。

 彼にとって、他者のことを考えるなど、存在してから初めての事だった。
 闇の中で、彼は耳をぴくりと動かす。

 伏せる彼の眼前には、自らの足が投げ出されていた。
 彼の足に唇を寄せた、娘のことが思い出される。

 血を欲し、血に飢えるのは満月の晩。
 それ以外は正常に暮らす娘を思えば、今頃昨夜のことをどう考えているか分かるというものだ。

 ――あれ程、血を疎んでいたからな。
 彼は、愉悦からか目を薄っすらと開け、遠く闇を見やった。

 行った吸血に対し、娘は今自己嫌悪に浸っているだろうか。
 それとも、渇血病である身体に注いだ血の充足に、安堵の心を抱いているだろうか。

 満月の晩は強制的に地上に姿を晒すとはいえ、その晩以外は外に出られぬわけではない。
 この瞬間にも娘の下へ行くことも出来たが、彼はそうしなかった。

 ただ目を閉じ、愉しげに耳を揺らした。

 別に急くこともない。
 彼には余るほど時間があり、さして他に心を占めることも無い。

 初めて訪れた些細な楽しみに、彼は一度だけ、尾を動かした。
 自分のこの不可解な反応すら、彼にとっては興味深かった。
 生じた感情の動きを読み解く事を急くでもなく、じっくり味わうように。

 満月までには時間があるのだ。
 欲するものは次の満月に。



 ◆



 一月と言うように、満月までの間は短かったのか長かったのか。フィリエには分からなかった。

 空が朱に染まり始めた頃、フィリエは森に入った。

(あの魔物は、森に住んでるのかしら)

 フィリエは結局一月の間、自分の定まらぬ感情に頭を悩ませていた。
 その原因となった森の方向を正視することも出来ず、魔物がいるかどうか誰かに探ることも出来ず。
 それほどまで強く、不可解な感情を、あの魔物はフィリエに抱かせた。

(本当なら、こんな森二度と来たくなかったのに)

 部屋に閉じこもっていてもよいが、誰にも会わずに住むという保障はない。
 そして誰かの目に触れれば、フィリエが血に飢えているのが分かってしまう。

 渇血病が、頻繁ではないと言え昔から跋扈していたこの地域では、患者を見分ける方法が小さい子にまで浸透している。

 今のフィリエのように、満月の晩だけ赤く染まる瞳……それが、渇血病の被害者だ。

 血を求め出すと共に、その『赤』は瞳に沈着し、やがて元の瞳を『赤』が塗り替える。
 その為、渇血病にかかった者は、赤人(あこうど)と呼ばれていた。

 フィリエの瞳は、常ならば焦げ茶だ。赤になれば、すぐにヒトに知れる。

 だからフィリエは、満月の晩には誰も近寄らない、この森を避難場所に選んだのだ。


 さくさくと音を立てて、フィリエは森を移動していた。
 満月の晩だけは、この森から獣の姿が消える。
 街ではまことしとやかに様々な噂が昔から飛び交っているが、フィリエはおそらく唯一、その理由に推測がついた。

 脳裏に、かすかにきしむ心音と共に浮かぶ、魔物の姿。

(あれは、獣だなんて言えるものじゃない)

 闇が形を取ったような、『魔』そのもの。
 流れる赤い血を見なければ、フィリエはあれが生き物だ何て信じられなかったかもしれない。

 手に汗を握り、身体を緊張で震わせながら、フィリエは森を進んだ。

 慎重に、前回を潜んだ場所を避けようと、足を異なる方向へと向ける。
 以前と同じ場所へ向かう方が明らかに浅慮であるのに、フィリエの足取りは何故か重くなる。

(これで、いいの)

 自分に言い聞かせるように、フィリエは足を進めていた。

「眩しい……」

 ふと木々が途切れ、強く月の光が差し込んだ。
 眩しさに目を細めてそちらを見る。


「っ!?」


 一番見たくない光景が、飛び込んできた。

 大きく開いた空間の中心にそびえ立った岩場に、大きな闇が鎮座していた。
 あの魔物が、岩に腰を下ろし、静かに月を見据えている。
 風になびく漆黒の毛は、闇が光を侵食しようと蠢いているかのようで、フィリエの心に恐怖を抱かせた。

 それなのに、角だけが、月の光を浴びてなお、それ自身が光を放っているように輝いている。

 恐怖と憧憬、相反する姿が、魔物そのものだった。

 後ずさったのか、それとも前に足を進めたのか、やけに大きな音を立てて、フィリエの足が動いた。

「!」

 その音に、魔物が緩慢な動作でフィリエを振り返る。
 一月前と同様、酷なまでに澄んだ瞳がフィリエを貫いた。表情の読み取れない瞳で、何を言うまでも無く魔物は彼女を見やった。

 恐怖か、それとも別の感情でか、どくりと、心臓が音を立てた。

「う、ぁあ……っ!」

 瞬間、フィリエを激しい発作が襲った。
 内側からフィリエを染めるような衝動は、今まで経験したどんな吸血衝動よりも強く、比較にならないほどだった。

 今までも、満月の日はヒトを見るだけで血を吸いたいという欲求に身を焦がしていたが、今日は何故かそれがなかった。
 一度でも血を飲んだら、より血への欲求が高まると聞いていただけに、フィリエにとっては拍子抜けだったわけだが、そんな気分も今、全て掻き消えた。

 魔物の姿を一目見ただけで、全ての細胞が魔物を、魔物の血を求めているように騒ぎ出している。

「く、んぁあ……っ!!」

 自分をその場から動かないように耐えるだけで、今のフィリエには精一杯だった。
 一瞬でも気を抜けば、魔物に駆け寄って、攻撃されることなど考えることなく飛びつきそうだ。

「ぐ、くっ」

 目を閉じ、唇をかみ締め、波が過ぎるのを待とうとした。

 それなのに。



 ◆



 ふうわりと、風をまとって彼は娘の近くに着地した。

 娘が目を見開いて、彼を見上げる。

 小さな娘は、一月前と同様、吸血衝動に抗って歯を食いしばっていた。
 今、娘には状況を理解する情報もないのだろう。

 僅かに首を下げ、彼は満足げに娘を見た。
 彼には、娘の状況が手に取るように分かっている。

 渇血病は、血が幻力を蓄えなくなる病だ。
 空気と同様に、この世界の万物は、幻力を求める。
 血を持つ生き物の多くは、栄養分と共に血中に幻力を蓄えるのだが、渇血病が発病した者はそれが出来なくなる。

 だから、外部から血と共に、その幻力を求めるのだ。
 それゆえ、吸血衝動を抑え、血を絶ったとしても、血に含んだ幻力が無ければヒトは死ぬ。

 しかし血によって得た幻力を渇いた身体は喜び、一度味をしめた後は、以前よりも幻力を求める。もっと、もっと与えろとばかりに本能が精神を凌駕していく。

 特に、満月の晩は、本能が最も強まる時だ。
 強大な月の力が、生き物の体内に宿る幻力を揺るがし、本能がより力を増す。普段精神によって抑え込まれていた本能も、束縛を解くほどに強まる時。  これが、渇血病患者――赤人が、満月の晩だけ血を求める理由だ。

 そして、巨大な力を持つ彼の血には、他の生き物など比でないほどの幻力が宿っていた。
 それを吸血した娘にとって、他の生き物の血など味の無いスープのようなもの。
 一度覚えた彼の血の味の代わりは、どんなものでも果たせない。

 他への渇望はより薄く、彼への渇望はより濃く、娘の身体は反応する。

「あ、ゃあ……っ」

 がくがくと震えながら、娘は強烈な衝動に耐えている。
 そんな姿を以前は興味深く見やったが、今の彼にはやや障りがあった。

 足を踏み出し、彼は娘の横に立った。
 彼の体躯は、娘を覆うほどに大きい。

「な、に……?」

 娘が、不安そうな表情で、彼を見る。
 ヒトであれば薄く笑ったであろう表情で、彼は牙を見せた。

「っ」

 びくっと、娘が目を閉じる横で、彼は自らの身体に牙を立てた。

「!!」

 娘が、弾かれたように顔を上げる。

「ぁ、あ……っ」

 別に自虐趣味は無いが、血の香りを辺りに放ちながら、彼は娘を見据えていた。
 震えていた身体を抑えていた両手は解き放たれ、彼の身体に、娘の小さな手が押し当てられた。

 血に迷っているとはいえ、完全には意識の失われていない娘が、彼の身体に触れる。
 そして、迷わず血が滴る部分へと唇を押し当てた。

 前回よりも躊躇無く、待ち望んだものを得たように、娘の顔は安らかと血を受け入れていた。

 娘が行う行為を彼はじっと見つめていると、不意に温かな唇が彼から離れた。

「わた、私……っ」

 自分がしていた行為に思い当たったのか、娘は唇を押さえて顔を青くさせた。
 彼はそんな娘の様子を見ると、ため息をつくように息を吐いた後、その場に身体を倒した。

 それは別に疲れたわけでも、傷が痛んでいるわけでもないのだが。

「だ、大丈夫ですか!? ごめんなさいっ!!」

 娘はいっそ蒼白と言えるほどの表情で、彼の身体に触れた。

「私、私が、傷……っ」

 自分の咎だと思っているのか、娘は泣きそうな表情で彼の傷口を見ようと毛を掻き分けた。
 どくどくと、月光で赤い血が煌めいている。

「どうしよう、血が……っ」

 心底彼を案じるように、前回と同様、娘は周りに何か無いか勢いよく首を左右に回した。
 流れ出る血は、前回の分と重なって、彼女の靴まで赤く染めている。

「何か血止めになるもの――!?」

 彼女のあまりの様子に、彼は仕方ないとばかり力を込めた。

「うそ……」

 娘の目の前で、傷は見る見るうちにふさがり、やがて完全に消えた。

 彼ならば怪我を治すことくらいワケないのだが、あえて流れるままにしていたのだ。

 信じられないものを見たように、娘は口を開け放って呆然と傷のあった部分を見ている。
 彼はそんな娘の背を尾ではたくと、娘を囲むように丸くなった。

「え、あの」

 娘の慌てるような声がしたが、彼は気にせず目を閉じた。
 娘が離れるか、このままか、興味深く耳を立てながら。



 ◆



 フィリエは人生で最も混乱していた。

(いや、え、あの、ええ!?)

 魔物が、彼女を包むように横になり、そのまま目を閉じてしまったのだ。
 前回のように、闇に掻き消えるわけでもなく、威風堂々と見据えるでもなく。

 思考回路を切断されているフィリエの指や膝を、魔物の意外なほど柔らかな毛が撫でる。

 傷を見ようと身体に触れた手には、とくんとくんと、心臓の音が響いてくる。

 ……あれ程恐れた魔物なのに、この瞬間だけは、そんな思いを抱けなかった。

(どうし、よう……)

 迷いながら、恐る恐る、押し当てた手を滑らせた。

「わ……」

 魔物の身体は、柔らかく彼女の手を受け止める。滑らかな毛の流れが、彼女にむず痒い思いを抱かせた。
 魔物が全く反応しないことをいいことに、魔物が恐ろしいものである事も忘れしばらく撫でていたフィリエだが、段々と意識や感覚が落ち着いてきた。

 あれ程の恐怖も、飢餓も、全く彼女の内にない。

 むしろ清清しいまでに身体がすっきりと、軽くなっているのを感じる。
 それが血を吸ったせいなのかは分からないが、どうせ分からないことばかりなのだ。

(この魔物が、私に血をくれる理由も)

 魔物のせいで、渇血病に抗う努力は水の泡と化した。
 フィリエは既に、滅びへの道を歩み始めている。
 渇血病は死病だ。
 病が進行して治った者、生き延びた者はいない。

 ヒトを襲う赤人が、誰にも見咎められずに生を全うすることなど出来るはずがないのだから。

 だがフィリエは、この魔物にしか衝動が起きなかった。
 それ以外のヒトには、微塵たりとも反応しなかったのだ。
 まだ初期症状だからか、これからもずっとなのかは不明だが、ヒトを襲わなくてもいいかもしれない。段々と強まる吸血衝動に、自らの精神の限界を感じていたフィリエには、現状はさして退転してはいなかった。

(そうだ……あのままでも、血を避けられたか分かんない……)

 そこまで考えが及ぶと安心したのか、フィリエはその場に崩れた。
 朝から、いや発病してからずっと張り詰めていた気が、弛緩していく。

 フィリエは傷口があった場所を避け、魔物に倒れこんだ。

 夜風が、肌を撫でていく。

「あり、が……」

 最後まで言い切ることなく、フィリエの意識は闇に沈んだ。



 ◆



 ……。

 彼は、娘から小さな寝息が聞こえる頃、目を開いた。

 恐怖と血への欲に震えていた娘は、今は安らかな顔で彼に身を預けている。

 それは彼にとって、初めて見る光景だった。
 恐怖でも、怯えでも、敵意でも絶望でもない、柔らかな表情。

 彼は虚を突かれたように、娘の顔をじっと見据えていた。

 まさか、本当に寝られるとは思わなかった。
 自分で促した事ながら、彼は少なからず驚いていた。

 何なのだ、この娘は。

 初めて、彼は分からない事に軽度の混乱を覚えた。
 分からないことは分からない事として受け入れる事が出来る彼にとって、それは初めての戸惑い。

 当の娘本人は、薄ら笑いを浮かべて、むにゃむにゃと惰眠を貪っている。

 それを穴が開くほど注視した後、彼は考えるのを止めた。

 事態は、彼が向けた方向へと流れている。
 ならば何故、気を騒がせる必要がある。

 ――そんな必要など、ない。

 彼は心中で呟くと、娘に合わせて再度目を閉じた。

 娘は彼を、彼の血を必要としている。
 ならば、渇血病が真なる部分へ進むまで、血を与え続けようではないか。




 ……彼と娘の奇妙な晩は、こうして三度に及んだ。



⇒後編へ


戻る
inserted by FC2 system