「ね」 願いを叶えるのはいつだって


 世の中には不思議なことが沢山あるものだ。
 そもそも多種多様な種族が生きているのだから、見慣れぬ力や現象だって体験する機会がある。そこに幻力が関われば、その頻度は劇的に増すというものだ。幻力の『淀み』が生じる場所には、得てして不可思議なことが起きるものだから。

 しかしまさか、自分がこんな目に遭うとは思わなかった。

「――というわけです、ルニエさん。さあ、次はルニエさんが約束を守る番ですよ」
「……いや、約束って言われても……」

 ルニエは、心底反応に困っていた。
 目の前に、爛々とその深緑色の瞳を輝かせて彼女を見つめる男がいる。暑苦しいほどの熱視線に、どんな魔物にも立ち向かっていく自信のあるルニエだったが、思わず身を引く。
 そんな彼女とは正反対に、男は尻尾を勢いよく振る犬のように、足を前に出した。

(いや、『犬のよう』じゃない……犬だ、こいつは)

 目の前にいる男は、金色の長毛を風にそよがせ、尻尾をそれこそ千切れんばかりに振っている四足歩行の獣――どこをどう見ても、犬だった。そのサイズは彼女を乗せられそうなくらい大きくとも、黒々と濡れた鼻先やピンッと後ろに向けて立つ大きな耳、黒い無骨な鉤爪をもつどっしりとした四本の足は、間違いなく彼女の知る犬という生き物に近かった。
 その『犬』が、彼女に熱く語りかけている。

「忘れませんよ。ルニエさんは確かに、『そうだなあ……獣とかだったら恋人にしてもいいかもね。ああ、恋獣か?』って言いました!」
「……お前、そんなこと言ったのか?」
「……言ってない……と言いたい」
「つまり言ったのかよ」

 酒場で目の前に座る別の男が、彼女を憐れな子を見るような目で見ている。そんな視線を向けられるのはこれが二度目で、ルニエは思わずその顔を右手で正面から掴み、力を込めた。

「いてええ! ちょ、マジ止めろ! 割れる! 顔が割れる!」

 ルニエは鮮やかな笑顔で男の顔を握りながら、本当にどうしようと悩んでいた。そこに、巨大な犬が男とルニエの間に割って入ってくる。鼻先をルニエの腕に擦り付け、彼女と男を引きはがそうと頑張っている。可愛いなおい、と思わず心の中で呟いてしまい、瞬時にルニエは敗北感に襲われた。

「ルニエさん、ゲランさんばかり相手にしないでくださいよ。しかも俺という恋人に抱擁の一つもしないうちに!」
「待て。いつの間にあなたが私の恋人になったの」

 目を険しくして睨み付けるルニエに、金毛の犬はきょとんとした顔であっさりと言い放つ。

「だって、ルニエさんでしょう? ルニエさんに告白した俺に、『貴方が獣の姿なら受け入れたかもね』って言ったのは」

 五日ほど前に、確かに苦し紛れに言った記憶があるセリフに、ルニエは顔を引きつらせる。そう、事実彼女はその言葉を放っていた。


「でも……それを言った相手のエルロッドは、人間の姿をしていたはずなんだけど」


 そう、この犬が自分だと名乗り、彼女が知っているエルロッドという青年は、間違いなく人間の姿をしていた……少なくとも五日前までは。
 その後は彼とは顔を合わせてはいないが、まさかそんな短期間で二足歩行の人間型生物から、四足歩行の大型肉食性雑食獣に変わるとは想像もしないだろう。彼から、獣の姿を取れると聞いた記憶もない。

「そうですね。まあ、話は簡単です」

 どうしてか犬(?)となってしまったエルロッド――実際、彼の瞳や髪の色、口調や声は確かに人間姿のエルロッド――は、相変わらずルニエの手をゲランから外そうとしながら、話し始める。

「五日前の晩、決死の覚悟でルニエさんに思いのたけをぶつけた俺は、『獣だったら受け入れてたかもね』という残酷かつ無慈悲な断り文句に打ちひしがれ、無我夢中で走っていたら町の外に出ていました」

 あっさりと吐かれた言葉に、ルニエの胸に刃が突き刺さった。あの時は相当混乱していたせいで気付いていなかったが、改めて聞くと何とも酷い断り文句だ。もう少し言い方があっただろうにと思わなくもないが、時すでに遅しである。

「通る者のいない馬車道に一人佇み号泣していると」
「うぐ」
「不思議な霧が突然身体を包みまして。平衡感覚がくずれるような、二日酔いを酷くしたような、そんな気色悪い感覚でしたが、以前幻力の『淀み』に近づいた時と同じ感覚だと気付いた俺は、叫んだんです」
「……何て?」

 正直聞きたくなかったが、聞かなきゃいけないような気もして、ルニエは恐る恐るエルロッド(仮)に尋ねる。
 エルロッドは犬の姿だというのにはっきり分かるほど、大きく微笑んだ。

「――『ルニエさんに認めてもらえるのなら……犬にすらなりたい!』、と」
「ば、馬鹿かお前ーっ!!」

 あまりの言葉に、ルニエは店の中だというのに立ち上がって絶叫してしまった。
 周りの客が、ルニエ達の方を何だなんだと見てくる。
 ルニエは慌てて口を閉ざし、椅子に座った。

「――それで……まさかあなたは、その『淀み』のせいでそんな姿になったとでも言うつもり?」
「そうなんじゃないですかね? 俺としては、こうして獣の姿になれたという結果だけで満足です」
「気にしなよ……すっごい重要なところでしょうが、そこは……」

 全く気にしていない様子で尻尾を振り続けているエルロッドに、ルニエは疲労感を滲ませて呟いた。

「そこは論ずべき点ではないので、どうでもいいんです。肝心なのは、ルニエさんと付き合うことが出来るという一点のみ」

 むふーっと、鼻から息を出してもふもふとした喉元を見せる犬改め男は、意味もなく誇らしげだ。

「いや、だからさっきからなんでいきなり付き合うことになってるの」

 本気で訳が分からないとばかりにエルロッドをじと目で睨むと、彼は無駄に綺麗な瞳を彼女に留めた。

「――まさか、ルニエさんはあの言葉は嘘だったと? 貴女の唯一になれるならばと獣にまで身をやつした男に、あれはただの戯言だったとでも言うつもりなのですか?」
「ぐ……」

 彼女が命令したとかではないが、この元は人間的な見た目を持っていた男が衣服すらない四足歩行の獣になったのは、相当曲解されたとはいえ彼女の言葉に端を発した事件と言えるかもしれない。そう認めてしまえば、お前が勝手に願ったんだろうとは言い切れないルニエだった。

「ルニエさん」
「う、う……」

 犬男は、顎を彼女の腕に擦り付けながら、深い色合いの瞳を細めてルニエに流し目を送る。犬の癖にその色気は何だと叫びたくなったが、ルニエはたじろいで口元を引き締めただけだった。

「ぃ……」

 そんな二人の無言の攻防に、小さなうめき声が割って入った。

「――いい加減、この万力のような手を離せ、ルニエ!」
「あ」

 彼女の右手に今なお顔を締め上げられたままのゲランがついに叫んだ。ガチャンッと、机の上のジョッキが彼の拳に合わせて音を立てる。

「ごめん、すっかり忘れてた」
「そうだと思ったよ、見ろ、この指の跡!」

 すぐさま手を離したルニエを、目を吊り上げたゲランが自分の顔を指差し詰め寄った。彼の顔には、しっかりとルニエの指の跡が赤く刻まれている。彼はその微妙に凹凸の出来上がった顔を撫でると、すぐ目の前にいる超大型犬を睨みつける。

「しかもエルロッド! お前、俺が呻いてんの気付いてたのにあえて無視してただろ」
「そりゃそうですよ。俺、ゲランさんのこと嫌いですからね」
「エ、エルロッド!」

 本人を前にしてさらりと言い放ったエルロッドの口を、慌ててルニエが両手で押さえる。どうしても狂犬を取り押さえるように鼻筋と顎を挟み込む形になってしまうが、仕方ない。
 嫌いだと正面切って言われた当のゲランは、「ほう、そうかそうか……」と声に強い感情を含ませながら、その場に立ち上がった。嫌な予感がして、ルニエは思わず身を引く。
 そしてゲランは、こめかみに青筋を浮かべて口だけで笑った。

「お前らと一緒に飲む酒などない。帰れ!」
「え――だって私まだ半分も飲んでな――」
「払っといてやるからさっさとこの犬っころを連れて出てけ! うちの団の奴が女の尻を追って犬になったなんて噂されたら、こっちが迷惑だ!」

 ゲランはそうルニエとエルロッドに叫ぶと、一人と一匹の首根っこを掴み、席から無理矢理どかした。相変わらずの馬鹿力だと感心する彼女の頭上を、何時の間にすり取ったのかルニエの財布が飛んでいく。

「わ、私のお財布が!」

 決して少なくはない金が入った財布が、ゲランの馬鹿力によって店の入り口に向け放物線を描いて飛んでいき、ルニエは青ざめた。近くにいた客たちが、瞬時にその予期せぬ宝物に手を伸ばす。上手くいけば中身が丸々……とはルニエとゲランの手前いかないだろうが、小金くらい『礼』として貰えるだろうと彼らが考えたことは簡単に読めた。
 慌ててルニエは立ち上がったが、荷物と愛槍を掴んだ分、初動が遅れた。
 客の一人が彼女の財布に触れる――直前、客たちの頭の上を悠々と飛び越えた金色の獣が、先に財布を奪った。

「エルロッド、よくやった!」

 エルロッドはルニエの財布を口で挟み、難なく地面に着地する。

「……」

 そして駆け寄るルニエをちらりと振り返ると、無言で身体の向きを変え、脱兎の如く店の外に向かって駆け出した。

「エルロッド!?」

 てっきり、エルロッドは彼女に財布を返してくれるだろうとばかりに速度を緩めていたルニエは、その動きに反応できなかった。彼女の手を逃れて、あっさりとエルロッドは押し戸に体当たりし、店を出て行ってしまう。
 ルニエは一瞬だけ後ろを振り返ったが、ゲランが面倒くさそうな表情でしっしと手を振っているのを目に留めると、そのまま店を出て行った。

 店に入った頃はまだ夕暮れだった空はすっかり日が沈み、今はもう月明かりに照らされる穏やかな闇に包まれている。
 いつも夜空を見上げるたびに感じる開放感でルニエは一瞬足を止めかけたが、ランタン広場と呼ばれる少し開けた広場――と言っても噴水と、それを囲む四、五基のベンチが木に囲まれてあるだけ――の中心に、闇に浮かぶように佇む金色の獣を認め、足を動かした。
 エルロッドは、彼女がある程度まで近付いたのを見ると、追いつかれまいとでもするように駆け出した。

「エルロッド!」

 咎めるように叫んでも、エルロッドは全く止まる気配が無い。からかうように、もしくは先導するように、一定の間隔を空けて彼女から距離を取り続ける。彼女が追いつこうと速度を上げれば、エルロッドも緩やかに速度を上げ、二人の距離はいつまでも縮まらない。結局彼女は、闇が支配する空の下、建物の合間を縫うように呼吸が苦しくなるまで走らされ続けた。


 * * *


「エル、ロッ、ドぉ……!」

 きっとその時のルニエは悪魔のような顔をしていただろう。
 最終的にエルロッドが立ち止まると、ルニエは彼に掴みかかるのも忘れ、中腰で膝に手を当て呼吸を整える。
 息は途切れ途切れに、わき腹を押さえながら、街灯を背にしてエルロッドを呪い殺す勢いで睨みつける。一傭兵として体力には自信のあるルニエだが、それも体調が万全であればの話。魔物退治の仕事を終えて疲労は蓄積され、食事も追い出されたせいで取っていない。さらにジョッキ半分とはいえ、すきっ腹で一気に煽った酒は体中に染み渡り、彼女の顔を運動の効果以上に赤く染め上げていた。
 足元に財布を置いたエルロッドは、ルニエの様子を見て首を傾げた。

「大丈夫ですか、ルニエさん? 顔が真っ赤ですが」
「誰の、せいだと……思ってん、の!」

 腹立ちついでに愛槍の柄の部分を犬に向かって突き出せば、エルロッドはそれを軽々と避ける。自分とは違って随分と彼には余裕があるらしい。あれだけ町中を縦横無尽に走り回っておいて、何とも羨ましい体力だと憎憎しく思った。

「俺がルニエさんの顔を赤くさせたのだと思えば気分も良いですが、どうせならもっと艶っぽい理由が良かったですかね」
「その冗談、面白くない」

 きっぱりと言ってやれば、エルロッドは残念そうにくぅんと高い声を漏らした。

(相変わらず、何を考えてるのか分からない奴だな)

 ルニエは顔を顰めたままに、心の中で呟いた。

 この犬――になる前のエルロッドも、ルニエにとっては不可解な人間だった。
 獣の姿と同じくすんだ金色の髪は、柔らかく鳥の巣のようにふんわりと広がり、常に彼女を光源でもあるかのように細めて見つめる瞳は深みのある濃い緑色。「素人ですが」と前置きして傭兵団に入った新人のはずなのに、身のこなしは古株に劣らぬ程無駄が無い。
 何より彼女が苦手とするのは、男が普段は飄々としている顔を、ルニエの前では時折酷く真剣なものに変えること。
 彼が入団してわずか三ヶ月。気付けばいつだって彼女の傍におり、何か言いたそうなぎこちないへらり顔でルニエを見つめるのが常だった。

「とりあえず、身体も冷えるでしょうし、中に入りませんか?」
「誰のせいだと――中?」

 文句を途中で切ってルニエが顔を上げると、そこには石造り大きな建物が聳え立っていた。建物は三階建てで、入り口には松明が光を生み出し、訪れるものを歓迎している。風に揺れるように扉の上に設置された木の看板には、『ニーダの宿屋』と書かれていた。

「――いつの間に『うち』に」

 その宿屋は、ルニエが定宿にしている『我が家』だった。
 宿として貸し出すのは二階までで、三階はルニエのように月極めの客に向けた貸し部屋になっている。食事や清掃は含まれないが、風呂など一部の施設は宿泊客同様に使えるので、広い風呂好きのルニエは中々引越しにふんぎることが出来ないでいた。

「さ、行きましょう」
「エルロッド!」

 この宿が彼女の家だと彼に教えた記憶はないのだが、エルロッドは財布を咥えて迷いもなく宿に入ると、規格外の大きさを持つ『犬』が入ってきたことに驚く宿泊客を尻目に階段へと向かう。さすがに宿の者は様々な種族に慣れているだけあって動揺は見せなかったが、獣に続いて入ってきたルニエに『後できっちり説明しろ』とでも言いたげな視線をよこした。

「わふっ」
「……なんで私の部屋まで知ってるの……」

 誰も連れてきたことがない部屋の位置までしっかり把握しているエルロッドに内心ドン引きしながらも、財布を離そうとしない彼にため息をついて、ルニエは部屋の鍵を開けた。扉が開くや否や、エルロッドは身体を隙間から滑り込ませ、さっさと中に入ってしまう。
 その遠慮のない様子に、文句でも言ってやろうかと続いたルニエは、思わず足を止めた。
 部屋の中心で、エルロッドは鼻先を天井に向けて目を嬉しそうに細め、耳を身体につけて、深く深く、空気を取り込んでいた。今にも遠吠えでもしそうな姿勢だが、そのあまりに幸せそうな表情に、ルニエは息と共に苦言を飲み込む。

「ルニエさんの匂い……」

 その一言さえなければ、とこの時ほど思ったことはない。
 ルニエは今だ恍惚とするエルロッドの足元から財布を拾い上げると、窓際に備えられた丸テーブルの前にある椅子に音を立てて腰を下ろした。

「財布、ありがと。もう帰っていいよ」

 とりあえず用は済んだのだからと、ルニエはエルロッドを追い出そうとする。だが彼はきょとんと目をまん丸にし、不思議そうにルニエに言い返した。

「何処にですか?」
「何処って……あなたの家でしょ?」

 彼とてこの町に三ヶ月ほど暮らしているのだから、借りている部屋の一つくらいあるだろう。

「戻れるわけないじゃないですか」
「なんで?」
「俺、荷物とか持ってるように見えます? 具体的には、鍵とか」
「え?」

 無駄に堂々と足を揃えて『お座り』をするエルロッドは、当然丸裸だ。何かを身につけている様子は一切無い。それを念頭に入れた上で『鍵』と言われて、ルニエは顔を引きつらせた。
 人間から突如獣の姿に変わってしまったエルロッド。いくら馬鹿な願いを叫んだとは言え、本当に獣になるとは誰だって予想しないだろう。少なくとも、ルニエはたまに呟く「あーあ、鳥になりたい」という言葉を、本気で鳥になると思って言っているわけではない。
 だから、獣になってしまった彼はきっと混乱しただろう。身体が変わってしまったのだから、見に付けていた物全て犬の身に合う訳もなく、当然その場か、町に戻ってくる道中で落とすか何かしたとしても不思議ではない。

「家の鍵とか……持って、ないの?」
「持ってないですね」

 半ば予想して尋ねたことだったが、案の定エルロッドは所持品ゼロであるときっぱり告げた。
 彼の非常に堂々とした態度に、頭が痛くなってくる。
 彼が同一人物であると証明できそうにない以上、エルロッドが借りている部屋の管理者とかに話をつけて鍵を開けてもらうという案は無理があるだろう。そもそも今は夜で就業時間外。今日は話すら出来ない可能性が高い。
 目の前に、無一文の巨大犬が一匹。非常に認めたくはないが、彼女が理由で獣に成り果てた男。
 選択肢は二つ。追い出すか、居座らせるか。

「……これから、どうするつもり?」

 巨大すぎる犬の姿をした部下に、ルニエは静かに尋ねた。

 ルニエは、同じ村の出身であるゲランと共に、この町の傭兵団で小隊長を任されている。エルロッドは、三ヶ月前に彼女の隊に配置された新人だった。
 傭兵団といっても、やっていることは衛兵と同じだ。中規模の町であるこの土地に、正規の兵はいない。何十年か前、たまたま移り住んできた五人の傭兵が町の守備を引き受けた。そこからは段々とその人数が増えて『傭兵団』と呼ばれるようになり、魔物の大量発生などの有事の際には他の傭兵達も戦力に加わえ、この地を守ってきた。現在は、ルニエ達一部の固定団員と、志願した傭兵達で構成されている。傭兵という気ままな連中が在籍する性質上、末端の団員がころころ入れ替わる人数のあやふやな集団だが、まとめ役である固定の団員が指揮及び監視役となっている為、治安悪化などはさせていない。
 とにかく、いつ抜けるかもしれないとは相手とはいえ、ルニエは一応エルロッドの上司だ。管理責任があることからしても、このまま放り出すわけにはいかないだろう……ルニエは、自分にそう言い聞かせた。

「そうですね……」

 最悪を想定する必要はあるが、まずは本人の意思を聞くのが先決だろう。真剣な表情でベッドの脇に座るエルロッドを見据えるルニエに、当の巨大犬は尻尾を振って床の汚れを払いながら、首を僅かに傾ける。思わずその驚異的な愛らしさに噴出しかけ、ルニエは慌てて咳払いで誤魔化した。

「とりあえず、風呂に入ってきます」
「は?」

 ごほごほと喉を鳴らす彼女に、エルロッドはそんなことを口にする。

「いや、この姿になったの、五日前でしょう? それからまだ一度も風呂に入ってな――」
「さっさと一階の風呂場に行ってこい!!」

 エルロッドの話を途中でぶった切り、ルニエは彼に布を投げつけた。エルロッドは布の下でもぞもぞと身体を動かすと、器用にそれを背にかけたまま前足で扉を開け、部屋を出て行く。
 その獣の姿をしていてもやけに人くさい動作に、ルニエは深くため息をついた。
 さすがに扉を引くことは出来なかったのか、開け放たれたままの扉を閉め、ルニエはベッドに倒れこむ。横になると、飲酒のせいでいつもより早い鼓動がやけにはっきりと感じられる。

「……なんでこんなことに……」

 元凶がいないのを良いことに、ルニエはここぞとばかり声を出してため息をつく。
 エルロッドという男は、本当に彼女には理解できない。

 ――それは、何か言いたそうな目でこちらを見てくる彼に、いい加減苛々が限界に達したルニエが「言いたいことがあるならさっさと言ったら!?」と怒鳴った時も同じだった。

「……」

 感情のよく読み取れないいつもの笑みを消し、あの日のエルロッドは、ルニエを射るような目で見つめた。口元は微笑んでいるのにその真意は分からない、どこか捉えようのない男というのが、彼に対してルニエが抱いていた印象だったのだが、この時だけは違っていた。
 夕暮れに染まっていく町の中、ただ土が剥き出しになっているだけの空間である鍛錬場には既に他に誰もおらず、誰かが出しっぱなしにしていた木刀を二人で片付けていた。


『――ルニエさん、貴女が欲しい……貴女の、心が。ずっと、そう思っていました』


 突然吐かれた言葉に、それこそルニエは身体を凍りつかせた。

『な、にを……。私は――』
『貴女が人の男に恋情を抱かない、という話は知っています。それでも、俺は貴女の唯一になりたい』
『エル、ロッド……』

 瞳に火傷しそうな焔を伴って彼女を見つめるエルロッドに、ルニエの頭は真っ白になった。

 魔物から町を護る為、近くの森や街道に討伐に出る時も、鍛錬場で槍術の訓練をする時も、気付けば隣にいた男。
 自分でも馬鹿げたと思える経緯で、人型の男に恋心を抱けなくなった彼女に、エルロッドは決して異性に対する思わせぶりな素振りを見せることはなかった。女じゃないかと武人としての彼女を侮ることも、鍛えられた無骨な身体に残念だとでも言いたげな視線を寄越すことも、男勝りな彼女の性格に落胆の表情を見せることも、ない。
 ただ彼はいつも、ルニエの実力を認めた上で彼女を補える位置にいた。彼女に純粋な敬意を払い、自ら前に出ず彼女の死角を守る。
 入団してわずか三ヶ月の新人。なのに、彼は当たり前のように彼女の横に馴染んでいた。

 そんな男に、突然想いを告げられ、ルニエの頭は混乱を極めた。

『告げるのが早すぎたとは思っています。でも俺は――』
『私は、誰とも付き合わない。……知ってるんでしょ、私とゲランの話』

 その名を出した途端、エルロッドは険しい顔をして唇を噛み締めた。

『――知ってます。でも、それは』
『何年経っても変わらない。私は、誰とも付き合わない』

 自分でもやり場の無い怒り――いや、情けなさに、判断力を喰われている自覚はあった。この話題になると、いつもこうだ。冷静さを保てない。きっぱりと冷たく言い切った言葉と態度は八つ当たりだと分かっていたが、それでも抑えられなかった。だからこそ、古株の傭兵達はそろって彼女の前でこの話題を避けるのだが、入団わずか三ヶ月のエルロッドが知らないのも無理は無い。

『……永遠に、ですか? それほどに、貴女の気持ちは変わらないんですか?』
『そうだなあ……獣とかだったら恋人にしてもいいかもね。ああ、恋獣?』
『ルニエさん!』

 冗談のような言葉を、彼女がからかっていると感じたのだろう。エルロッドは、今まで決して荒げたことの無い口調を崩して、叫んだ。

『俺が、人、だからですか? 人でなければ、貴女は受け入れたかもしれないと?』

 切なそうに顔を歪めて尋ねるエルロッドに、彼女は自分も似たような表情をしているのかもしれないと思った。

『……あなたが、獣とかだったら、受け入れてたかもね』

 そんな、裏を返せば完全なる拒否となる言葉を、彼女は意図せず吐いていた。
 直後、エルロッドは俯いて何かを呟き、ルニエに何かそれ以上言うこともなく一礼だけして走り去った。

 だからきっと、彼は知らない。
 彼女とてあの後、拳を思い切り握り締めて、雨でもないのに頬を濡らす雫をそのままに、長くその場に留まらなければならなかったことを。



「ルニエさん?」
「!」

 ぼうっとしていたルニエは、扉をカリカリと引っ掻く音とエルロッドの声で我に返った。
 慌ててベッドから立ち上がると、扉を開ける。先ほどよりも僅かに色味を増した大きな獣が、扉の前に佇んでいた。丁寧に畳まれた布が彼の背に掛かっていることから、風呂場の誰かが手を貸してくれたのかもしれない。様々な種族が立ち寄る宿屋というのは、こういうところが大らかでいい。

「――早かったね」
「急ぎましたから。時間がかかったら、ルニエさんに締め出しを喰らいそうだなと思って」

 そんな風に言うエルロッドに、彼女は苛立ちではなく愉快さを感じる。先日の件を鮮明に思い出したのが原因だろうか。ともかく彼女は扉を大きく開いてエルロッドを導き入れると、再度扉を閉める。

「しないよ、もう。私に責任の一端があるのは理解したから」
「責任……」

 彼女の言葉が気に入らなかったのだろう。エルロッドが声を低くしてそっぽを向いた。

「責任とか、そういう言葉は聞きたくないです。別の言葉が欲しい」
「エルロッド」

 不意に彼が紡いだ言葉に、ルニエは身体を硬くする。

「俺はもう『人』じゃないんですから、貴女の言い訳は通用しませんよ」
「……」

 確かに彼はもう『人』ではない。だから、もう一度彼に想いを告げられたら、『人とは付き合わない』という台詞は使えない。そんな中、またあの言葉を言われたら、彼女は何と返せるか。
 ルニエは無言で、一歩後ろへ下がった。しかしそこは狭い部屋の中。彼女の足はすぐに扉に当たり、がたんと音を鳴らす。

「……そんなに、怯えなくてもいいですよ。今の状況で、もう一度告げるつもりはありません」

 目に見えて彼女が安堵したのが分かったのだろう。エルロッドは困ったように瞳を細めて、視線を床へと移した。
 それを見たルニエは、自分がまた同じ間違いを犯したことを悟る。無神経に、彼を傷つけた。

「あ――」

 何かを言わなければいけないのに、口の中が乾いて言葉が上手く出てこない。結局口に出せたのは、苦し紛れの言葉だけ。

「……口に入れる物を持ってくる。エルロッドは欲しい物とか何かない?」
「ルニエさんと同じもので結構ですよ」
「そう」

 明らかに時間稼ぎか逃避だと分かっているだろうに、エルロッドは何も言わなかった。ただその場に腰を下ろし、目の前を行き来するルニエを目で追っていた。


(情けない)

 階下にある宿屋に併設された酒場で適当に料理を注文し、ルニエは出来上がりを椅子に座って待ちながら、頭を膝につけてため息をついた。
 一度振った男が、もう一度そういう意図でもって近づいてきたからといって、何と無様な姿だろうか。半ば遊びのように声をかけてくる連中同様、はっきりと断ればいい。

(……分かってる)

 いくらエルロッドが、彼女の冗談を真に受けて獣の姿に変わったとはいえ、それは彼女には関係の無いことだ。これでルニエが本当に責任を取らねばならないのなら、今頃世の中はもっと粘着系の変態が増えている。『ほら、お前の希望通りだろ、責任取れよ!』と相手に言ってやれば恋人になれるのだから。
 ではここまで、一度たりとも彼女が迷惑だと言っていないのは何故なのか……その答えがしっかり自分の中に存在することを、ルニエは我が身ながら憎々しく思っていた。
 しかし、彼女にはあんな情けない態度を取らなければいけない彼女なりの理由があった。

「……根性なしだって、分かってるけどさ」

 ぼそりと呟かれた言葉は、酒場の足元に広がる暗闇の中に吸い込まれていった。

 料理が準備されればそれ以上部屋から逃げる口実もなく、冷めないうちにとルニエは自室へと階段を上っていく。扉の前では念のため扉を数回叩き、料理の入った平たい二段箱を床に置いてノブに手をかけようとすると、彼女が触れるより早く扉が内側に開く。ひょこりと顔を覗かせたのは、当然エルロッドだ。

「おかえりなさい、ルニエさん」

 そんな一言を言われれば、もう随分と長く一人暮らしをしている彼女の頬は、自然と緩む。

「……ただいま。適当に見繕ってきたけど、肉で良かったよね?」
「はい、勿論」

 彼女が持ってきたのは、肉を主材料とした料理三種類と、サラダ、そして色々なスパイスと豆を練り合わせたペーストが添えられた焦げ目付のパンだ。とりあえず、犬が食べてはいけないような物は除いたはずだが……彼を犬と同じに考えてよかったのか分からなかった彼女は、結局無難な選択肢に落ち着いた。
 肉料理は全て深い皿に入っており、エルロッドが文字通り犬食いしたとしても中身が飛び散ることはないだろう。ルニエは机の上に料理を置こうとして、止まった。
 エルロッドは既に行儀よくニ脚ある椅子の片方にお座りしているが、どう考えても獣姿の彼にテーブルで食事は大変だろう。しかし、床に置くのも、中身は人である彼を馬鹿にしているようで気が引ける。

「ルニエさん?」

 来ないかと彼女を見つめてくるエルロッドに、ルニエは「よし」と頷くと、一度料理を机に避難させ、木箱を逆さにして床に置いた。元々床の一部にはラグが敷いてあり土足で上がっていないし、木箱の上に大きめの布を掛ければ路上生活のような気分にもならないだろう。

「エルロッド、こっちにしよう」
「でも」
「今日は疲れたし、たまには胡坐で食事もいいんじゃないかな」
「……」

 彼女がそう言って先に座り、濡れた布で手を拭えば、エルロッドが椅子から降りて彼女の真横に来た。そのままやや冷たくなっている鼻先を頬に押し付け、ぺろりと下で肌を舐める。

「な――!?」
「貴女のそういうところが、俺には堪らない」

 彼は高い唸りを喉から漏らすと、頬を押さえる彼女をよそに、さっさと正面の空間に腹ばいになった。

「行儀が悪いのは見逃してください。立ったままよりは、まだマシでしょう?」

 バツの悪そうな顔をでそう言うエルロッドに、ルニエは毒気を抜かれ、息を吐いた。肉料理を三皿全てと、水差しから注いだ飲料水の入った皿を彼の目の前に置く。一品一品が中々の量なのだが、ルニエはこの数ヶ月でエルロッドが大食漢であると知っているから、獣の姿になったとしても念のため充分な量を確保してきた。余ったら、彼女が食べればいい。
 しかしそんな心配は杞憂に過ぎなかったようで、エルロッドはあっという間に大皿を平らげ、二皿目に入った。

「随分、お腹減ってたんだ」

 パンにサラダと豆ペースト、あと小魚の塩漬けを乗せて口に入れながら、思わずルニエが呟いてしまうほどの食べっぷりだった。

「五日前から、あまり食べていなかったので」

 咀嚼の間にそう言うエルロッドを、思わず感嘆の目でルニエは見てしまった。確かに、突然無一文の獣姿になってしまえば、碌なものが食べられるとは思わない。道具が使えなきゃ火だって起こせないだろうし、買い物だって出来やしない。そもそも、この五日間、この男はどのようにして暮らしていたのだろうか。それすら尋ねていないことにルニエは今更ながらに気が付いた。

「――この五日間、何してたの?」
「森で身体に慣れていました」

 三皿目に突入しながら言い放ったエルロッドの言葉に、その様子を想像し、ルニエは顔を引きつらせた。野生に返らなくて良かったなと思い、そんな自分の反応に憮然とする。誤魔化すようにパンを口の中に詰め、水で流し込んだ。感じるべき空腹感は、すでにここまでの疲労で押し流され、主菜も食べぬ内に胃が満腹を訴えている。
 自分でも珍しいことだなと思いながら顔を上げれば、勢いよく水を飲むエルロッド。そんなに喉が渇いていたのだろうかと眺めていると、彼は口元を濡らしながら皿から顔を離す。

「ルニエさん、ごちそうさまです」
「あ、うん。どういたしまして――って」

 口の周りから滴った水が長い金茶色の毛に入り込み気持ち悪いのだろう、エルロッドは身体を僅かに震えさせる素振りを見せた。当然ルニエは焦って止める。

「お願いだから、それは止めて」
「え?」

 室内で大型犬よろしく顔についた水を飛ばされては、堪ったものではない。よく観察すれば、彼の身体も拭きが甘かったのか湿ったままだった。今までそれに気付かないとは、彼女の脳も相当可笑しなことになっているに違いない。

「ああもう、そこでじっとしてて」

 むずりと身体をそわそわと動かすエルロッドに据わった目で命じると、ルニエは新しく綿布を収納から取り出し、エルロッドの横に座ると布で彼の身体を拭い始めた。まず始めに頭に布を被せてわしゃわしゃと掻き乱すと、布の下から一部の毛がカールになった巨大な獣が何か言いたそうな視線を投げかけてくる。
 エルロッドもさすがに文句でも言うかと身構えていたのだが、彼は逆に目を閉じ、犬という特性上どうしても上機嫌に見える顔を彼女の腕に沿わせた。服のおかげで湿った毛の感覚は伝わってこないが、ピンと張られたヒゲが彼女の首元にちくちくと当たる。
 ルニエは彼の身体の横に移動し、長い毛並みから水気を布で拭き取り始める。

「――ごめん」

 エルロッドが大人しいからか、それとも空腹が満たされたからか、その言葉はすんなりとルニエの口をついて出た。

「何がですか?」
「……あなたに、言った事。もう少し言い方があったと思うし、そうすればこんな姿にならなくて済んだろうから」
「そこは、言った内容を否定して欲しいところですが……。まあこの姿に関しては、俺は別に気にしていないので、謝罪は要りません」
「気にしてないって……」

 彼女が眉を寄せて思わず呟けば、エルロッドは鼻先を強く彼女の首元に押し付けた。

「この姿でなければ、ルニエさんはこんな近くに寄らせてくれなかったでしょう?」
「それは――」

 その通りだが、ルニエは彼の返答に釈然としない思いを抱え、口ごもった。彼の大きな体躯に這わせていた手も、いつの間にか止まっている。

「……なんで?」
「?」
「なんで……そこまで。たかが数ヶ月程度の付き合いでしかないのに……」

 彼の想いを告げられた時も、獣に転じてまで『後悔していない』と言い切られた時も、その疑問が常にあった。
 世の中には、一目会ったその瞬間から何か運命的なものを感じる二人もいるのは知っているし、数回会って話をしただけで充分とばかりに恋人になる人々もいると、周りを見て理解している。ただ、エルロッドからそうした一種の『熱』のようなものを示されたことはなかったし、今も、一体いつ彼にそんな感情を抱かれたのかさっぱり見当が付かない。特別優しくした覚えも、恩を売った覚えもない。
 険しい顔でそんなことを言ったルニエに、エルロッドは逆に笑った。

「はは、光栄だな」
「……エルロッド?」

 牙と長い舌を見せて、人のように笑うエルロッドに、ルニエはいぶかしんで顔を顰める。彼はそんな彼女の反応などお構いなしに、顎を彼女の腕に乗せ、僅かに喉元を擦り付けた。

「ルニエさんは、俺のことそんな純真な男だと思ってくれてたんですか?」
「純真……って、いや、そういうわけでも……」

 純真と言われると、素直に頷けない。
 何せ人であった頃のエルロッドに対する評価は、団員のほぼ全てから『食わせ者』で共通している。今も獣になってさえこの落ち着きぶりを見せるこの男が一体何を考えているのか、ルニエには全くつかめなかった。

「いくら俺だって、一目で恋に落ちたって程度の出会いをした相手だったら、ここまでしませんよ」
「え?」

 エルロッドは、尻尾を追う犬のように身体を捻り、彼女の腕から背中まで鼻先を回す。何も知らない者が見たなら、彼女を抱きしめていると思ったかもしれない。

「もう……六年ほど前になりますか、貴女に出会ったのは」

 背後から聞こえてくる声に、ルニエは間の抜けた声をこぼす。

「初めに会ったのは、三か月前じゃ――っ!?」

 後ろから首元を舐められ、ルニエは身体を反らせた。突然何をするのだとエルロッドの背を布の上から叩けば、彼が全く懲りずに顔を背にこすり付ける感覚が伝わってくる。

「いいえ、もっと前です。お互い幼かったので、覚えていないのも無理はありませんけど」
「幼かったからって……」

 六年前と言えば、彼女がゲランと共に村を出て一年もしない頃だ。
 あの頃は必至で剣の腕を磨いていたから、正直あまり思い出というものがない。その頃はまだ取り柄のない村娘だったせいで傭兵団に入れてもらえなかったから、この宿屋で働きながら暇を見つけては走り込みをしたり、旅人から剣を習ったりしていて常に疲労困憊の状態だった。手にできたまめが痛くて、給仕や皿洗いに支障が出れば怒られる。かと言って剣の鍛錬をさぼるわけにはいかず、まめはもっと酷くなっていく。手のひらが硬くなるまではその悪循環の繰り返しだった。
 しかし、あんなに頑張って強くなったというのに、それが完全に空回りだったのだと分かった今は、正直思い出したくない頃の話だ。

「……思い出したくないのも、分かりますけどね」

 彼女の心を読んだように、エルロッドが憮然とした口調で呟いた。彼が何故そんな声を出すのかが分からない。この件で羞恥に駆られるのはルニエだけなのだから。

「そりゃ、今となっては馬鹿みたいな少女時代の話だから、極力思い出したくないよ。あの頃は本当にゲラン一色だったか――」

 彼女の言葉を遮るように、エルロッドが喉の奥から響かせる唸りと共に、部屋の中の物すべてを震わせるほどの音量で吠えた。彼は彼女に向けて吠えたわけではなかったようだが、至近距離でそれを聞いた彼女を耳鳴りが襲っている。

「いきなり、何を……」

 耳を押さえてなんとかその最初の衝撃を乗り切り、若干ふらつきながら身体を捻って後ろのエルロッドを睨み付けるルニエに、彼はひくひくと威嚇するように口の皮を捲り上げながら言った。

「その名前は聞きたくありません」

 抑えようとしても漏れ出てしまう唸りの合間にそう話したエルロッドは、犬というより獣に近い形相と雰囲気で、ルニエは何故か見たくないと思い正面を向いた。突然変わった彼の機嫌に戸惑い、彼女は愚かにもエルロッドの警告にさして注意を払わず、再びその言葉を口にする。

「聞きたくないって……本当に嫌いなんだね、ゲランのこ――い……っ!?」

 突然、腕の下にあったはずのエルロッドの身体がなくなった。それにルニエが反応する前に、右側から強い衝撃が加わり、床に上半身を叩きつけられる。
 咄嗟に受け身を取って左半身に走った衝撃を流そうとしていると、右肩が強い力で床に押し付けられる。反射的に武器になる物をと伸ばした左手は、彼女の腕よりも太い前足に押さえつけられた。
 眼前に、鼻の頭に皺を寄せ、鋭い牙を剥き出しに唸り声を上げる、獣の頭があった。今にも喉元を――いや、頭を丸ごと食い千切られかねない形相の巨大な獣が、ルニエの仰向けの身体に覆いかぶさっている。

 ルニエは今初めて、エルロッドに危害を加えられるかもしれないと肌で感じていた。
 おかしな話だが、『得体の知れない』と評されるこの男から、ルニエは初対面の時すら危険なものを感じたことはなかった。胡散臭い笑顔も、どうとでも取れる言葉選びも、無名とは思えないその実力も、男が実力に驕ることなく真面目に働く姿と比べれば、彼の本質を語るに足るものではなかったから。
 だからこれが、彼女にとって初めて、エルロッドへ恐怖を抱いた瞬間だった。

「エル、ロ――」
「聞きたくないと、言ったでしょう?」

 平坦な声が、獣から漏れる。
 獣の声は小さく、そこからエルロッドの感情を読み取ることは難しい。それゆえ、彼が今何を思って彼女を押さえつけているのか量ることは出来なかった。彼の太い前足に圧迫される左腕が、血流を遮られてかじりじりと痺れている。

「エルロッド……」

 どうすべきかなど思い浮かばず、彼女は無意識に相手の名を呼んだ。
 グル……と、かすかな唸りが聞こえる。しかしそれは、先ほどまでの威圧を持った音より遥かに弱々しい。
 思わずそっと右手を伸ばせば、彼はそれを避けるように鼻先を上に向ける。彼女からは彼のふさふさとした喉元が覗けるだけで、彼の瞳は隠れてしまった。

「――傷つけたい、わけじゃ……」

 天井に消えるように響いた声は、何かの感情に引きずられるように僅かに揺れており、酷く痛々しく感じられた。
 エルロッドはそのまま、彼女の左腕から前足を退ける。それに伴い、拘束から抜けた腕がじわりと熱くなっていく。
 ルニエの肩の傍に置かれたエルロッドの足がわずかに後ろへと動き、彼が自分から身を離そうとしているのだと感じ取ったルニエは、反射的に両手でエルロッドの顔を挟みこんだ。

「!?」

 手のひらから、エルロッドの身体がびくりと跳ね、その動きを止めたことに気が付く。
 この押し倒された状態から抜け出すのなら今しかない。だがルニエは、同時の今しか、エルロッドの真意を聞くことは出来ないのではないかと思った。

「……なんで、そんなに嫌いなの」

 いくら嫌いな相手の名を出したからと言ってこの反応。本人を前にして堂々と嫌いだと言ったり、エルロッドはゲランに対して恨みでもあるのだろうか。ルニエは逆恨みのような憎たらしさを感じてはいるが、彼女達は幼馴染なのだから理由には困らない。しかしエルロッドは部隊も違うし、実力はともかく在籍期間からすればまだ新人だ。一体どんな理由があるというだろうか。

「……それ、は……」

 エルロッドがたじろいだ。
 言いにくそうに口をつぐみ、彼女の手から逃れようと、顔を振る。
 しかし、そんな微弱な力では、ただ触れているだけの手からすら逃れられないだろう。いや、そもそもエルロッドは逃れたくないのかもしれなかった。
 ルニエは僅かに彼の両頬――と言っていいのか不明だが――を挟みこむ手に力を入れる。

「エルロッド」
「……」

 ここでむやみに凄んだり怒鳴ったりしても、この男が一度閉じた口を開くとは思えない。彼の答えを聞くために、ルニエは考える。

 ゲランは無神経なところも大いにある奴だが、一応幼い頃から助け合ってきた兄のような、弟のような相手だ。変な誤解がエルロッドとゲランの間にあるのなら、解いておきたい。エルロッドにしても、立場のある相手に無駄に牙をむいていては、ゲラン本人はともかく他の団員からの評価を下げかねないのだから。
 押してダメなら、とルニエはそこで手に力を込めて上半身を起こし、彼の耳の後ろへと両腕を回した。引き寄せるように力を籠め、彼の頭を抱きしめる。ルニエの顔と首の右半分が、やや湿った柔らかな毛で包まれた。触れ合う部分から、エルロッドの動揺が直接伝わってきた。
 そのまま無言でじっとしていると、エルロッドが低く唸る音が聞こえたが、それは先ほどのような畏怖を引き出すものではない。

「――当然、でしょう……?」

 エルロッドが、静かに呟いた。
 彼が体勢を低くすれば、ルニエの背が再び床に着く。エルロッドは彼にとって不自然なその体勢のまま、動かなくなった。ルニエは彼の身体と床に挟まれた形になり、重くはないが、身体の前面全てからエルロッドの熱を感じる。
 エルロッドの顔を見ようと首を動かそうとしたが、エルロッドが強く彼女の首筋に頭を埋めた為、それは叶わない。
 表情を隠したまま、彼は続けた。

「あの人は、貴女を守れる場所を与えられていたのに、貴女の想いも努力も否定し、今でも貴女が隠そうとするその傷に気付かない」
「エル、ロッド……」

 呻くように、かろうじて喉から零れ出た言葉。
 その言葉に、彼女の全身が凍りついた。
 抽象的に聞こえるセリフなのに、矢で射ったように的確にルニエの見ないようにしていた古傷を抉った。

「許嫁なら、誰よりも貴女を支えるべきだったのに」

 腕から力が抜けそうになり、ルニエは無意識にエルロッドの首を抱く力を強めた。
 腕から伝わる熱と、肌を撫でる柔らかな毛の感触が、胸を締め付けるこの思いに耐えるには必要だったのだ。

『許嫁』

 強く獣の頭を抱きながら、思い出したくもないのに過去のことが勝手にルニエの脳裏に蘇る。



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