「た」 ただ従うくらいなら


 赤い色が、彼女の視界を覆っていた。
 冷たい石で出来た道に飛び散っているのは、彼女の身体から流れ出た血に間違いなく、一目で助かりはしないのだろうと分かるほど、大きな水溜りを作っていた。

「――」

 呟いた彼女の声は音を作ることなく、空気の中に溶けていった。

(何で)

 それが頭を過ぎりはしたものの、長いこと脳に留まる前に、彼女は自分の家族の姿を思い浮かべた。
 母と弟。
 そして、彼女は抜けていく力を集めて、片手を動かした。

「――ね、ない……っ」

 彼女はまだ死ねないのだと、声を出そうとしたが、熱い塊が喉の奥からこみ上げてきて、それはやはり声にならなかった。

(ようやく、立ち直ったのに)

 父が病気で亡くなってから三年。
 ようやく母も弟も立ち直ってきたというのに、ここで彼女まで去っては、二人がどんなに衝撃を受ける事か。

(やっと、話せるようになったのに)

 年月が経ち、ようやく胸を痛ませる事なく、父の話が出来るようになったというのに。
 視界が涙で滲む中、彼女は強く唇を噛んだ。まるでそうすることで、全ての感覚を取り戻そうとでもするかのように。
 しかし、それでも彼女の全身に奇跡が起きるわけもなく、段々と感覚が失われていく。

「――」

 腕が重い音を立てて、地面に倒れこむ。
 意識がふわふわと霧散し、何かを考え込む力も消えていく。

 薄れいく視界の中で、何かが彼女を覗き込むように影を作り、腕を伸ばすのを見た。


「――や、だ……」


 それが、彼女が呟いた最後の言葉だった。




 * * *




 彼女は、本に囲まれた空間の中、息を潜めて足音が部屋の前を通り過ぎるのを待っていた。
 本棚の壁に囲まれて、彼女は極力物音を立てないように、座った姿勢で息を殺す。

「コルネリア」

 低い深みのある声が、扉が開く音と共に空間に満ちる。

 祈りは無駄に終わった。

 声の主は扉を開けてしばらく佇むと、迷うことなく彼女がいる場所に向かって足音を高鳴らせて向かってくる。
 彼女は思わず息を止めて身を硬くしたが、そのかいもなく、本棚の影から長身の男性が姿を現した。

 無造作のように見えるが短く整えられた銀の髪、薄い青色の肌に尖った耳、質の良い黒の服に収まった鍛えられた身体。
 一目で力ある者だと分かる彼だが、見かけだけでなく実際に、今は隠れている漆黒の羽と鋭い爪で他者を蹴散らす事が出来るのを、彼女は知っている。
 ただの人である彼女が、彼に逆らう術など普通はない。
 彼女が悔しさから口元に力を入れれば、彼の金色の瞳が彼女を見下ろした。

「また此処にいたのか。読めもしないのに書庫に篭る理由などなかろう」
「……」

 彼女は嫌悪感を隠す事もなく、男を睨みつけた。
 しかし彼も慣れたもの。
 平然と彼女の視線を受け流すと、腕を掴んで彼女を立ち上がらせた。
 上質なドレスが微かな音を立て、デザインされた形へと広がっていく。

「客人が来る。さっさと準備を整えろ」

 男はそれだけ言うと、彼女のドレスから埃を払い、慌しく出口の方へと向かっていった。
 扉に手をかけて一度だけ振り向くと、眉間に皺を寄せて声を発する。

「お前が私の“妻”らしく振り舞いさえすれば、こんな面倒などなくなるものを」
「……」

 “夫”の愚痴を、彼女はいつも通り無言で聞き流した。
 彼は彼女が聞こえるようにため息をつくと、扉を開けて出て行った。

(貴方が私を解放すれば、そんな心配だってなくなるのに)

 声にならない言葉を、彼女は心の中で呟いた。
 足元に詰まれた本の山の中から、一番下にある大きな辞典を取り出す。

(……見つからなかったかしら)

 コルネリアは、小さく息を吐いた。

 いつ誰が来てもいいように、本の山で壁を作り、その影で読む癖をつけているし、実際に彼が来たときも上手く隠せたはずだ。本が納まっている場所を間違えた事はないし、極力跡もつけない様にしている。
 彼女がこの本を読んでいるなどと思いもしない彼は、本の所在を確認する事もないだろう。

(『導書』……)

 言葉自体に不思議な力が含まれているという『呪』を集めたこの書は、禁書の類に入る。
 といっても、館には彼と彼女、そして従者達しかいないのだから、厳重に保管する必要も無いらしく、無造作に書架の奥で埃を被っていた。
 彼は書物の力を借りずとも十分力のある種族であるし、従者達は主の厳命に背けば何が起きるか分かっているから、掃除以外で書庫に入ることなどない。
 そして通常とは異なる文字――彼の種族の言葉で記された本は、コルネリアの様なただの人間には読むことが出来ない。

(でも私だって、無為に過ごしてきたわけじゃない)

 本を強く握り締めて、彼女は奥の棚へと移動する。
 誰も教えてくれないからといって、彼女は諦めなかった。
 書庫をかたっぱしから当たって文字を習い、大抵の本は読めるようになってきた。導書の解読も順調だ。少しでも早く、導書の力を手に入れなければいけないと、彼女は必死だった。

 本を棚に一つずつ戻しながら、彼女は唇を噛み締める。

(こんな所から抜け出すには、この本の力を借りるしかないんだから)

 戒めのように彼女の指に収まった銀色の指輪を見て、彼女はため息をついた。

(あの人から逃れるのは、それしかないんだから……)





「ツィルト!」
「……エグモント」

 夜遅く、玄関から笑顔で入ってきた青肌の男は、コルネリアの夫を見ると嬉しそうに両手を広げた。
 エグモントと呼ばれた客人は抱きつこうとして、夫――ツィルトの方に手を伸ばすが、即座に彼に避けられる。

「気色が悪い。笑うな。殺すぞ」
「あははは、嫌だなあ、ツィルト。君は客に対してもそんな態度を取るのかい?」
「貴様じゃなければ言わん」

 コルネリアが彼のそんな露骨な表情を見るのは初めてだったから、新鮮な気持ちで夫を見上げていた。

「用が無ければ領地にすら入れたくないものを」
「それは酷い扱いだなあ。旧友に向かって」
「ただの腐れ縁だろうが」

 銀色の長い髪を一つに束ねた夫の友人――エグモントは、人の良さそうな顔をコルネリアに向けた。

「初めまして、伯爵夫人。どうせツィルトは紹介してくれないだろうから自分から言うけど、僕はエグモント=デュバイ。エグモントと呼んでくれていいよ」

 腰を曲げて友好的に差し出された手に一瞬戸惑いつつも、彼女は彼の手を握った。
 えてしてツィルトの種族は皆長身で逞しい。

「……」

 無言で握手を交わす彼女を高い位置から少々眺めたと思えば、いきなりエグモントは彼女を抱き上げた。

「っ!?」

 驚きから叫びそうになるのを必死で耐えて、コルネリアはあわあわと夫を見やった。

「エグモント!」
「いた、痛い痛い」

 噛み付きそうな勢いでツィルトは彼女をエグモントから奪取すると、自分の影に隠してしまった。
 彼女の位置からでは二人の表情を見ることは出来ないが、エグモントと言う名の友人は、盛大に笑っているのだろう。

「そんな怒らなくてもいいじゃないか。彼女とはこれが初対面だからさ、友好の挨拶ってやつだよ。君ってば結婚式挙げなかったから」
「挙げていても誰が貴様など呼ぶか」
「呼ばれなくても行っただろうけどね」

 愉快そうに笑い声を漏らすエグモントと、苛立ちが言葉の端々に上るツィルトの関係が何だか掴めたような気がすると、コルネリアは思った。

「そうそう、名前を聞いてもいいかな?」

 ひょいっと、エグモントがツィルトの身体の影からコルネリアを覗き込んだ。
 彼女は口を開け、そしてすまなそうに再度閉じて喉に手を当てた。

「……コルネリアだ」
「君には聞いてないよ、ツィルト」
「――だから貴様を呼んだんだろうが」

 ツィルトが二人の間に立つように位置を変えたせいで、コルネリアからは再度彼らの姿が見えなくなった。
 ただ、愉快そうなエグモントの声だけが、やけに耳に響いた。


「奥方が話せなくなった“病気”を、治してくれ……だっけ?」


 そう……他の大勢と同様、エグモントは彼女の“病”を治すために屋敷に招かれた。

「殆どの手段は当たったからな。……非常に不愉快だが、医者としての貴様の良識に期待する」
「そんなに期待されると、裏切りたくな――はいはい、最大限努力いたしますよ」

 彼はそう言うと、手をひらひらと振りながら、従者の導きに従って客間の方へと消えていった。
 コルネリアの目の前で、大きなツィルトの身体が揺れ、ため息が聞こえる。

「コルネリア」

 二人のまるで普通な会話に呆気にとられていた彼女は、夫の声でふと我に返った。

「アレには極力近づくな」
(アレって……友だちに向かって随分な言い方)

 そんな彼女の考えが顔に出ていたのか、ツィルトは思い切り顔を顰めて、エグモントが消えていった方角に視線を向けた。

「あいつは変人だ。根っからのな。女相手に何かするとは思えんが、用心するに越した事は無い」

 まだ睨みつけるように廊下の先を見るツィルトに、彼女は思わず口角を上げた。
 普段はただ恐い存在であるツィルトも、今だけはただの人のように思えた。
 ツィルトは視線を戻して、彼女の顔を見て訝しげな表情を浮かべた。
 慌てて、コルネリアは表情を消す。

「――とにかく、用が済めばすぐに追い出す。それまでは距離を保て。分かったな?」

 反射的に頷きかけてから動きを止め、彼女は彼から視線を反らして横を向いた。

「……」

 再度、頭上からため息が聞こえる。

「――奴と話してくる。先に寝ていろ」

 彼女の肩を叩いて、ツィルトは廊下の先へと姿を消した。

 その様子を見届けて、彼女はため息をついた。

(今日は、一人だ)

 夜に、彼とベッドを共にするのは、苦痛だった。
 夫婦としては間違った考えなのかもしれないが、彼らは決して、好意の果てに結婚したわけではない。親が決めたわけでもなければ、生贄とかそういうわけでもない。

「……」

 喉に手を当て、彼女は床を見つめた。 
 声を出そうとして、息が漏れる音だけ確認した。

(まだ、喋れる)

 もう一年以上、誰かと話していない。
 誰かに聞こえるといけないから、独り言すら言っていない。
 だからたまに、自分が話せるのだと言う事を、彼女は忘れそうになる。

 彼女の“病”は、仮病だったから。

 ツィルトに対する、彼女が出来る唯一の抵抗だった。
 ささやか過ぎて、彼にとっては障害になっているのかすら疑問だが、コルネリアのせめてものプライドだ。
 最初は、彼女のただの我がままだと思っていたツィルトも、最近では本当に病なのだと信じているようだった。悲鳴も寝言も、寝所ですら声を出す事を止めて一年以上にもなれば、誰だって信じるのかもしれない。

(お母さん……)

 胸の前で手を合わせ、コルネリアは目を閉じた。
 もうどのくらい、家族に会っていないだろうか。じくりと、胸が痛んだ。家族を想うだけで、涙が出そうになる。

(エグモント)

 先ほど会った、医者を思い出す。
 まずは、彼の診断を乗り越えなくてはいけない。

(……これを乗り越えれば、また一歩、家族に会える日が近づくから)

 何度も医者や薬師等の訪問を切り抜け、彼らに原因不明の“病”だと診断させてきたのだ。今度も、上手く出来るはず。そしてその後にまた、『導書』の解読を再開すればいい。
 彼女は意を決したように目を開け、自室へと足を向けた。




 * * *




 遠くで、声が聞こえた。
 まるで別の世界の出来事のように、雑音が邪魔をしてはいるが、はっきりと言葉は伝わってくる。

『何言ってんの、あなた……!?』
『お前は死んだんだと言った』
『そんなわけない!』
『馬車に轢かれたのを、覚えていないのか?』
『!?』

 ノイズが、激しく頭をかき鳴らす。

『完全に世界を離れたくなければ、私の妻になれ』
『つ、妻……?』
『私の一族は、半魂の者を伴侶とする。お前は私に繋がれ一体となる代わり、数百年の時を得る』
『だからって……』
『家族にとて、再度会えるだろう』
『――っ!!』

 この先は聞きたくない、反射的に思った。
 しかし雑音に混じった声は、隙間を縫って耳に届いてくる。
 先ほどまでよりも小さな、とらえる事が不可能なほど僅かな音声ではあったが、何故かひどく大きく聞こえた。

『――嘘、だ』
『嘘、ではないな。この場で嘘はつけないようになっている』
『だって、だって――』
『事実だ』

『私が、お前を殺した』



「――っ!!!」

 彼女は声にならない絶叫を上げて、飛び起きた。
 呼吸は荒く、全身に汗をかいている。
 胸を押さえて、周りを確認した。いつもの自室――夫婦の寝室だ。

 隣を見れば、ツィルトが目を閉じて横たわっていた。
 彼女の腰ほどに、彼の片腕が回されてはいたが、起きてはいないようだ。
 珍しく、お酒の香りがした。
 何だかんだと、久しぶりに友人に会って、楽しいひと時を過ごしたのではないだろうか。

(最近は、張り詰めたようだったから)

 そんな彼を見ているのは、コルネリアにとて本意では――と、そこまで考えて、頭を振った。

 普段よりも柔らかい彼の様子を見て、コルネリアは泣きたくなった。
 以前だったら、微笑みたくなる光景だったはずなのに。
 彼の“告白”から、全部変わった。

(それまでは私、悲しかったけど――)

 この先が彼女にもたらされるまでは、彼女は二度目の生を受けたのだと思っていた。彼が、ツィルトが与えてくれたのだと。
 家族にしばらく会えないのは悲しいけど、彼と婚儀を終えれば多少の不便はあっても、また家族に会えるのだと思ってた。


 でも、彼が彼女の命を奪ったのだと、故意に自分の馬車を解放し、それが彼女に致命傷を与えたのだと、婚儀の直後に打ち明けられた。


 すぐには理解できなかった。
 彼は明るくて口達者、とはとても言えないけれど、彼女に気を遣ってくれているのが分かったから。何故彼女にあんな提案をしてくれたのか不思議ではあったけど、少しずつでもいいから好きになれればなあなんて、考えていたのだから。
 それなのに、彼女の平凡な人生を奪ったのが、彼だなんて。

(酷い、裏切りだ)

 一筋、涙が彼女の頬を伝った。

 反抗から彼女は言葉を封じ、そのままの状況ならば彼女が家族に会うのに協力しないと彼は宣告した。
 彼女は、半分死人の域に入る。
 彼からの力の供給なしでは、他者に彼女の姿は映らない。屋敷では通常通り生活できても、一歩外に出れば彼女は透明な、影でしかなくなる。

 それでもいいから、彼の元から逃げ出して、一目でも家族の姿を見たかった。
 誰に見られなくてもいいから、元の世界に戻りたい。

 唇を噛み、無理矢理彼から視線を外し、彼の腕からすり抜けるように背を向けて横たわった。
 眠らなければ、戦う力は湧いてこない。
 彼女は目を閉じて一心に一つの言葉を唱えた。

 もうすぐだ。




 * * *




 闇の中、ツィルトは目を開いた。
 動くことなく、辺りの気配を探る。
 コルネリアが眠っているのを確認すると、彼は身体を起こした。
 夜目のきく彼の視界に、彼女の姿がはっきりと映る。目元に濡れた跡があるのも、彼の目には鮮やかだった。

「……」

 無言で涙を拭い、しばらく妻である彼女の姿を闇の中で眺める。
 彼女を抱くように回していた腕の中に、その姿がないのを認識すると、彼は今度は彼女に触れないよう、腕を自分の元に戻した。
 耳を澄ませば、コルネリアの小さな寝息が聞こえてくる。
 以前は、夜中にむにゃむにゃと寝言を零していた記憶があるのだが、今はそれもない。

「――それほど、憎いか」

 彼はただ彼女を見つめて、呟いた。




 * * *




「やあ、コルネリア。ご機嫌麗しゅう」
「……」

 コルネリアは口を閉ざしたまま、エグモントに向かって会釈した。
 場所は何故か彼の希望で書庫なのだが、本日は検診のはず。
 しかし、彼は完全に手ぶらだった。

「?」

 臨戦態勢で臨んだ彼女としては、拍子抜けに他ならない。
 首を傾げる彼女に、エグモントは適当な机に身体を預けて続けた。

「もしかして、僕が何かしら怪しい道具で検診するとか思ってた?」
「……」

 一瞬戸惑いはしたものの、遠慮気味にコルネリアは頷いた。
 エグモントは、そんな彼女の様子にケタケタと笑うと、手をぶらぶらと揺らす。

「そんな事しないよ。だって君は正常だろうから」
「……」

 反応しないように自分を律しつつ、コルネリアはエグモントを注視する。

「あれ、反応なし? うん、やっぱり良い根性してるね、君」

 あくまで楽しそうに、エグモントは言った。
 彼女としては、次に何を言われるのかと内心戦々恐々としているのに、エグモントは非常に愉快そうだ。

「はい、これ」
「……?」

 そんな彼女に、彼が一冊の本を手渡した。
 深緑色の装丁がなされたその本は、彼女の目には新しい。少なくとも、彼女が今まで見た記憶は無い。

「僕らの種族に人間が招かれたのは、数は少なくとも君が初めてじゃない。その本は、そんな先達のうちの一人が残したものさ」

 ぱらぱらとページを捲れば、そこには見慣れた彼女の“世界”の文字が並んでいた。

「――」

 そして途中、思わず言葉を失った。
 動揺が現れないように注意をしながら、コルネリアは顔を上げる。
 弧を描く、金色の瞳と視線がかち合った。

「コルネリア」

 彼女の名を呼ぶ声は、彼女のよく知る相手――ツィルトとは、全く別のものだ。エグモントの声はもっと優しげで、柔らかい。

「ツィルトは、優しいかい?」
「……」

 何をいきなりとばかりに、彼女は少しだけ顔を顰めた。
 それが可笑しかったのか、エグモントは相好を崩す。

「あはは、面白い顔」

 そんな事言われて良い気分になるはずも無く、コルネリアは複雑な表情を見せた。夫の友人に対して礼儀を見せるべきか、失礼な相手に対して怒りを覚えるべきか。
 彼女の葛藤をよそに、エグモントは笑い声を押さえ込んで続ける。

「君は言葉がなくても十分面白い……おっと、賛辞のつもりだから、そんな顔しないでよ」
「……」

 彼女は渡された本を抱きしめて、一応心を落ち着かせた。

「……ツィルトと僕はさ、まあ腐れ縁ってやつなんだけど、付き合いが長くてね。一応お互いの性格は分かってる」

 突然切り出された話に、コルネリアはやや疑問を浮かべながらも、耳を澄ました。
 彼は先ほどまでよりも少しだけ真剣な表情で、書庫の窓を見やった。

「ツィルトってばああいう性格だろ? 愛想が無いって言うか堅苦しいって言うか」

 彼女はまさにその通りだと思いはしつつも、極力反応しないように努めたが、エグモントにはしっかり彼女の気持ちが伝わったらしい。

「だからその分色々苦労も多い。あの歳で――ああ、僕らにとって彼の歳は十分若い部類に入るんだけど、君には違うかもね」

 確かツィルトは、軽く彼女の五、六倍は生きているはずだ。人間にとっては寿命の範囲を超えている彼に、若いとは言えない。

「とにかくあの歳で伯爵の名を継いだから、気苦労が多いのは当たり前なんだろうけど。僕らの種族は繁殖力が弱いから、彼以外に妥当な後継者もいない事だしさ」

 実際、彼女が彼と同じ種族の人を見たのは、エグモントが三人目だ。一人は婚儀で祝詞を述べた男性で、次がツィルトの伯父。極端に数の少ない種族らしい。

「そのせいか幼い頃から厳しく育てられてね、素直じゃないっていうかあんな性格になっちゃったってわけ。可哀想だろ?」
「……」

 そんなの大きなお節介だとばかりに、彼女は今度は礼儀も考えず盛大に顔を顰めた。彼が可哀想かだなんて、エグモントに決める権利はないとコルネリアは思った。
 しかし予想外にも、彼女の反応を見て、エグモントは逆に笑みを深めた。

「でもまあ、ツィルトには何度も助けられてるし、感謝してるんだ。ほら僕、何処に行っても“変人”で通ってるから味方って少なくて」

 そういえばそんな事をツィルトも言っていたなあと、コルネリアは記憶を辿った。

「だから、此処に来たのは医者としてと言うより、友人として。正直、奥方がアレな奴だったらいっその事――と思ったけど……」

 いっそってどう言う事だと、嫌な想像を禁じえなかった彼女に、エグモントが身を乗り出して呟いた。

「……君でよかった。面白そうだし、あのツィルトには理想的だ」

 机から身を放して、エグモントは彼女に耳打ちする。

「――でも、助けるのは一度だけ。賢い君ならそれで十分だろう?」
「!」

 ぎくりとしながら彼の方を見れば、いつの間にか既に書庫の扉の前まで移動していた。
 後ろ手を振って、「双方に幸運を」という言葉を残し、彼は部屋を後にした。

「……」

 一人残されたコルネリアは、何が何だかと、煙に撒かれた気分だった。
 しかし彼女の手には、彼に渡された本がある。
 辺りに誰もいないのを確認してから、途中で思わず見る手を止めたページを再度開く。

(発音の変換図)

 そこに記されていたのは、ツィルト達独自の文字の発音方法だった。これを書いた男性は、伴侶から習った事の覚書程度にしか重要性を見出していなかったが、これこそ彼女が求めていたものだ。
 文字の発音が出来れば、『導書』の呪を唱える事が出来る。家に、帰れる。
 歓喜がじわじわと湧き上がる中、彼女は扉に顔を向けた。

(でも、どうして……)

 コルネリアが逃亡するのに手助けして、エグモントの得になることは何も無い。ツィルトを友人として大切に思っているようだったし、訳が分からないと彼女は首をかしげた。

(だからって、選んでる暇はない)

 彼の真意まで探っているほど、彼女には時間があるわけじゃない。急がなくては、家族の下に帰れなくなってしまう。
 コルネリアは大きく息を吐くと、目の前の本の知識に没頭し始めた。

(今晩――ううん、明日)

 ただ一つの句さえ唱えれば、彼女は此処から出られる。彼女は既に、その事を知っていた。
 だから後は、正しく発音さえ出来ればいい。さして大きな違いの無い二つの言語だから、それほど時間は取らないだろう。

 何故か複雑な感情を抱きながらも、彼女は本の世界へと意識を移した。



⇒後編へ


戻る
inserted by FC2 system